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*   *   *

つむぎが隼人と共に紀伊に旅立って、早五年の月日が流れた。

利通は今、信政と共に長崎は出島のオランダ商館で、エルヴィンという医者から蘭学を学んでいた。エルヴィンは三十歳半ばの貴公子で、外科治療に秀でた商館医であった。解剖学にも精通していて、その知識を得ようと日本中から、腕に覚えのある医者達がやって来ていた。利通等もその一派である。

利通と信政は、高明院で三年ばかり、門前町に生活する者達や訪れる旅人等を診療して来た。昼夜問わず、声が掛かれば足を運んだ。そのお陰で、命を存えた者達がいる。信政の謙虚でひた向きに邁進する姿を見守って来た和尚は還俗を許し、利通と共に長崎に行く事を認めた。

だが信政は還俗を断り、法衣を纏ったまま、利通と長崎へ向かった。

信政は初めて目にする異文化に驚き、外科治療に解剖学を必死になって学んだ。それに対して、つむぎの腕や毅のからくり医術を目の当たりにして来た利通は、以前に学んだ時のような弾む心はなく、何か物足りなさを覚えていた。

長崎には、からくり技術の向上を目指すべく毅も後からやって来ていて、利通はエルヴィンに毅を引き合わせ、外科治療にからくりを取り入れる進言をした。だが、からくりは費用が嵩み、壊れた際の補修問題もあると指摘され、長崎では不評であった。

「姐御には幕府の支えがあったから、俺もそれなりに色々な物が作れたんだ。世間には未だ浸透しづらいだろう。でもまぁ、いつか重宝される日を夢見て、今は改良あるのみ」

毅は明るく前向きだ。

そして利通は、初めて恋をしていた。同い年の近江国から来た尾崎美和という名の医者で、何時どんな時でも笑顔で優しく患者に接し、重症な者達も、彼女を前にすると気持ちが穏やかになった。

利通は、美和に対して想いを募らせていったが、美和の視線は、ただ寡黙に己の役目を果たしていく信政の方に向いているように見えた。

患者と向き合う時と同じ気持ちで接すれば会話は成り立つと思うのだが、美和を前にすると、どうにもぎくしゃくとしてしまう。何時までも気持ちを伝える事の出来ぬまま、美和は国許を出る時に約束した期間が来たと、長崎を後にしてしまった。

「参ったな。私は恋の病までは治せない」

落ち込み、何をするにも溜め息が先に出る利通を見て、信政は困惑したが、ある朝届いた一通の文が、利通の心を再び上向かせた。

それは、今は紀伊国に身を置くつむぎからであった。

毅から二人が長崎に来ている事を聞き知り、三人揃って一度こちらに来ないかと書かれていた。

現在、小川笙船の元で医者を続けていた平助が妻を娶り、弟夫婦と共に紀伊国に移住し、信敬もこちらに寺を建立して、新たに設けた菊等の墓守りをしているとの事だった。

「つむぎ先生は、相変わらずお元気そうだな」

「そうですね。たすく先生も信敬さんも、つむぎ先生の元に行ったのか。懐かしいな。また一緒に、診療が出来ないだろうか」

「気持ちが疼いているようだな、利通」

「兄上こそ」

二人は直ぐに決断してエルヴィンに話を通し、オランダ商館を後にすると、近くの小高い丘の上にからくりの家を建てた毅の元へ向かった。

戸口横の来客を伝える紐を引くと、上からカラカラと紙が貼られた戸板が降りて来て、先にからくりを積み込んで船で紀伊国へ向かうと、達筆な墨文字で殴り書きされていた。

「これはまた、大掛かりな知らせだな」

苦笑して、利通と信政は自分達も船を待って紀伊国へと向かった。

 

紀伊国の湊に帆を降ろした船から下りた利通と信政は、江戸の賑やかさとは違った整然とした町の様子に目を見張った。

正面の虎伏山の山頂に見える城は、紀州藩の和歌山城だ。つむぎ達は城の東、和歌川を越えた、伊勢街道と紀州街道が見渡せる山中に蔵紡城という隠し砦を築いて暮らしていると、届いた文には書かれていた。

つむぎの元を訪れる前に、少し城下町を歩いてみようと湊から内町へと入る寄合橋を渡った。江戸の日本橋ほどの賑やかさはないが、途中に米のせり市が見受けられたりと、活気に溢れていた。

しばらく歩んでいくと、城下町の中央の一角に『江戸神田和多屋』と看板が下がる小さな店を見付けた。

「兄上、たすく先生の弟さんのお店ですよ」

二人は頷きあうと、足早に店の方へ向かった。

その時、コンコンと咳き込みながら信政の横を走り抜けて行く若い棒手振りの男がいた。信政はふと足を止めて、その男を振り返った。

「兄上、どうしました」

「いや。ここへ来るまでの間、咳き込む者と何人かすれ違ったのでな。冬から春先にかけては、流行り風邪が蔓延する事もあるだろう。少し気になったから」

そう言いながら店の前までやって来ると、中から甘い匂いが漂って来た。

店の中には、平助とは違って背の高い素朴な印象の若い男と、目鼻立ちのはっきりとした若い女が、店を切り盛りしていた。その奥に一人、俯き加減に饅頭を箱詰めしている地味な雀斑顔の女が居た。

「あの、こちらは和多平助さんの縁のお店でしょうか」

店に入り利通が尋ねると、男は直ぐにはっとなって側に走り寄って来た。

「もしかして小倉先生ですか」

「はい」

「江戸では兄がお世話になりました。弟の桔平と申します」

桔平は商人らしく、丁寧に腰を曲げて頭を下げた。

和多屋は一年前に再び火事に巻き込まれ、全焼したとの事だった。

「当初は兄を頼って小石川養生所の手伝いをさせて貰っていたんですが、この事を知ったつむぎ先生から、こちらに来ないかとの文を頂きまして、皆して移り住みました」

「そうでしたか。それは大変でしたね」

「はい。でも、女房のゆきも支えてくれましたし、町の人達も良い人ばかりで、店もこうして新しく開く事が出来ました」

桔平は満面の笑みを浮かべると、店を振り返った。

「こちらに住まわれているのですか」

「私達はこの二階に。兄夫婦は、つむぎ先生のお城の近くで生活していて、お義姉さんだけはこうして手伝いに来てくれています」

言って桔平は、奥のさちに声を掛けた。

さちは手を止めてこちらを見て、一瞬の戸惑いの表情を浮かべた。それでも直ぐに利通達の方へとやって来た。そして一つ深く息を吐いてから、利通達を見上げた。

「へ、平助のにょ、女房のか、かよとも、申します」

途切れ途切れに言ってさちは顔を真っ赤にし、肩で息をした。利通と信政は互いに目配せし、さちが吃音である事を察した。

「私は小倉利通。そして兄の信政です。江戸では和多先生にお世話になりました。これからつむぎ先生を訪ねますので、またお目にかかる事を楽しみにしています」

話を繋いで、利通は微笑んだ。そんな姿を見て、さちはほっとしたように笑顔を見せた。

 

利通と信政が和歌山城の北側から和歌川を越え、少しなだらかな傾斜を登り始めると、辺りには見覚えのある薬草が一面に生えているのが分かった。

「これは、高明院以上ですね。たすく先生が目の色を変えただろうな」

つむぎの手解きで薬に精通した平助は、きっとこの自然を目の当たりにして大いに興奮した事だろう。

「それは、私も同じだよ」

そう言うや、突然に信政が茂みに向かって走り出した。

「兄上」

後を追って茂みに入ると、信政は朽ちたブナの木の前に佇んでいた。

「見ろ利通。立派なサルノコシカケがこんなにも」

太い幹から、半円状の肉厚なサルノコシカケが生えていた。手にしようとすると、頭上でカラカラと鳴子の音がした。

「あっ、これはまずかったようだ」

信政が手を挙げたその時、背後に人の気配を感じた。

「主達は医者か盗人か」

利通と信政はその声に振り返り、目を見張った。そこにはつむぎを小柄にしたような少女がじっとこちらを見据えていたのだ。

「盗人なら容赦は致しませぬぞ」

きっと睨まれるものの、些か迫力に欠けて利通は苦笑した。

「君は、蔵紡城に居るのかな。私と兄は、江戸で医者をしていた者だ」

「江戸のお医者様」

呟いて少女は、はっとした顔を見せた。

「失礼致しました。近道をご案内します。どうぞ、ついて来て下さい」

言うや、踵を返して走り出した。

「あっ、待って」

少女の後を追いながら、一体何者なのだろうかと利通と信政は顔を見合わせた。

少女は、高明院の裏階段のような荒れた場所を軽やかな足取りで上っていく。

「ねぇ、君の名前は。つむぎ先生を知っているのかな」

息を切らせながら後に続く利通等をちらりと振り返り、少女は「私の母上よ」と言った。

「母上だって!」

「菊姫様」

二人して素っ頓狂な声を上げたその時、前方から咎めるような男の声がした。

「この道は、我々の緊急用の道筋。無闇に教えてはならぬとお父上から言われておいででしょう」

「はい、でも」

菊と呼ばれた少女は、男に利通達が見えるように退いて振り返った。

「おや、これは。あなた方でしたか」

「飛礫さん」

男は飛礫だった。

「では、致し方ないですね。我らの城はもう直ぐです。天守閣もない砦ですが。菊姫様、先に行かれて、お母上に江戸の先生がいらしたとご報告下さい」

「はい」

菊は素直に頷くと、道を駆け上がって行った。

「飛礫さん、あの子はもしかして」

「えぇ。こちらに来て直ぐに授かりました」

知らなかったと、利通と信政は顔を見合わせて驚いた。

「菊姫と言います。この私が、守り役を仰せつかりました」

飛礫は、自重気味な笑みを見せた。

飛礫は以前、尾張の刺客の一味だった。高明院でつむぎを暗殺しようとして、隼人に仕立てられた身代わりの菊を斬り伏せた過去がある。

その菊を今一度蘇らせて、育てていこうという思いなのだろう。

「つむぎ先生らしい」

利通は微笑した。

 

やがて、茂みを抜けて広い大地が見えた。

四方に監視櫓が立ち、土塁に囲まれた、天守閣のない輪郭式平山城の造りであった。敷地は、思っていた以上に広いものだった。小石川施薬院のあった、御薬園ほどはあるだろうか。

中央に母屋があり、その周囲は農村を思い描くように田畑や長屋のような家々が点在した。

「万が一城下町で災害が起きた際、ここに町民達を引き入れます」

「隼人さんが城主なのですか」

利通が尋ねると、飛礫は驚いた顔をした。

「聞いていないのですか」

飛礫は利通ではなく信政に視線を向けた。信政が首を傾げると、飛礫は黙って近くの畑を指差した。

「信義様」

田畑を耕す者達に声を掛けている紋付羽織袴姿の男を見て、信政は驚愕した。

その傍らには、眼鏡をかけて微笑みかけるはなと、他に三人姉妹と思われる少女達がいた。少女達は、江戸の三年橋の側で附子毒で自害した、きわという娘の姉妹で、ろくでなしの父親から毅が引き離して高明院に預けた後は、信義が何かと面倒を見て来ていた。

「つむぎ様に請われて、還俗して昨年こちらへ。あの三人の姉妹を、養女になさいました」

「そうでしたか。長崎に向かう際に、私は大丈夫だ、構うなと言われていたので、その後は今日まで連絡を取らずにいたのです。はなとは、夫婦になられたのでしょうか」

「いえ。自身は業が深いので、今生では誰とも結ばれぬと。それでも、互いに信頼はあるのでしょう。こちらに共にこられたのですから」

飛礫の言葉に、信政は小さく頷いて目を細めた。

「くら先生、信政先生、いらっしゃい」

そこへ、菊に手を取られた白衣姿のつむぎが、やはり白衣姿の隼人を伴ってやって来るのが見えた。つむぎは、五年という月日を全く感じさせぬほど変わりない容姿で、さらにはつらつとした雰囲気を醸し出していた。

「二人共、一皮剥けた顔をしているわ。長崎はどうだったの。得るものはあった」

「解剖学は為になりましたが、施術に関してはつむぎ先生や毅さんの上をいくものではありませんでした」

「ははは。つむぎも毅くんも、常識には囚われぬ破天荒をやって退けるからな」

隼人はつむぎを見て、おかしそうに笑った。かつての主従関係は完全に消えて、端から見ても仲睦まじい夫婦になっていた。

「ここで診療をされているのですか」

「いいえ。城下町を外れると、貧困で町医者に診て貰えない人達がいるのよ。そこへ、私達が出向いているの」

「隼人さんも診察をなさるのですか」

「いや。私は、つむぎの用心棒だ」

「中には、話を聞かないで好き勝手をやる人が居るから。診察中、押さえ込んで貰うの」

急に真顔でつむぎが凄み、呆気にとられる利通と信政に、隼人は苦笑した。

「立ち話もなんだから、私達の家に案内するわ。そろそろたすく先生達も戻るでしょうし」

「毅さんと、信敬さんと一緒に、猪を退治しに行っているの」

菊のあっけらかんとした言葉に、利通はギョッとなった。

「退治というか、からくりを仕掛けて、この土地から去って貰うように仕向けているの。他にも熊や猿、鹿も普通に居る場所だから」

つむぎは、自然の要塞を見渡した。

 

母屋の中のつむぎ等の部屋に入ると、陽射し眩い庭園が目前に広がっていた。直ぐに菊が駆け降りて池の方へと走って行き、飛礫が後に付いて行った。

「幸せなんですね」

高明院の薄暗い北向きの部屋を見知っている利通は、つむぎを見て笑顔を向けた。

「えぇ」

つむぎは頷くと、傍らの隼人に視線を向けて微笑んだ。

「よっしゃ、効果覿面」

その時、賑やかな声が聞こえて来て、襖が開くと毅達が入って来た。

「おっ、くら先生達来たのか。姐御、猪家族は退散してくれたぜ」

「少し仕掛けにピリッとしたようですが、暴れ出して怪我を負う事もなく、たすく先生の眠り矢を使う事もありませんでした」

毅の言葉を受けて、信敬が合掌しながら応えた。

「眠り矢って」

「薬草を使った麻酔だよ。未だ塗布する量が定まっていないから、使わないにこした事はないんだ」

淡々と語る平助は、貫禄が備わっていた。そんな平助を、利通はまじまじと見つめた。

「家庭を持つと、貫禄が出るものなんだな」

「さちに会ったのか」

「さっき店に立ち寄った。挨拶をして貰ったよ」

「挨拶を」

平助は驚いた顔を見せ、直ぐに嬉しそうに笑顔を見せた。

「たすく先生以外と、話せるようになったんだ」

毅が感心したように言った。

「さちさんも神田に住んでいてな、家を焼かれて、火傷で施薬院に運ばれて来たんだよ」

「私も和尚様と共に手伝いに向かいましたが、さちさんはご自身の吃音を気にして症状を話して下さらないので、ほとほと困っていたんです。でも、たすく先生が心を開かせました」

毅と信敬がそう言って互いを見た。

「私はこの通り、痘痕が残った顔だろう。人に怖がられる事もしばしばあったけれど、つむぎ先生にずっと、堂々としなさいと言われて来たからな。それで、人の見方は変わって来る。それをそのままさちに伝えただけだ」

「本当に、見違えたな」

「お前は、全く変わらないな。そんな事じゃ、いつまで経っても独り身だぞ」

平助にバッサリと切り返され、利通はぐっとなった。

「たすく先生、それ傷口に塩」

「何だ、長崎まで行って振られて来たのか」

毅が囁いたのに、平助はお構いなしに辛辣な言葉を投げ、利通は項垂れた。

「ところでつむぎ先生」

利通の落ち込む姿を見て信政が話題を変えようとした刹那、北の方角からけたたましい鳴子の音がした。

「うわっ、奴等舞い戻って来やがったか」

「やっぱり眠り矢の出番か」

「ですが、僅かでも量を違えれば殺生に繋がりかねません。ここは一つ、くら先生、信政先生、お力をお貸し下さい。皆で追い返しましょう」

矢を引き寄せる平助に首を振り、信敬は利通と信政に声を掛けた。

「おぉ、そりゃあいい。手伝ってくれ。姐御、すまねぇな。くら先生達を借りていくわ」

「えっ。猪なんて、扱った事ないですよ」

「直ぐに慣れる」

有無を言わさぬかのように、利通と信政は毅達に引き摺られて行ってしまった。

「今日はお客人だというのに、容赦ないわね。ところで隼人さん、風邪薬を多めに処方しておいた方が良いかしら。十日前に出向いた集落で、風邪が蔓延していたでしょう」

つむぎは苦笑しながら見送ると、真顔になって隼人を見た。

「他の所では症状を見掛けなかったけれど、この時節は流行り風邪に用心しないと」

「そうだな。後でたすく先生にも話してみよう」

隼人の言葉に、つむぎは頷いた。

しかし、日暮れ近くまで猪と対峙してへとへとになって戻って来た平助に伝える事は出来ず、利通と信政も早々に部屋で休んでしまってその日は終わった。

翌日から三日間は雪が降り頻り、四日目の晴れ渡る昼過ぎに城下町を廻って来た飛礫が、咳をする者が多数いるとつむぎに報告をした。

 

「ここへ到着した日に、道すがら数人の咳き込む男の人達を見掛けました。漁師だったり、棒手振りだったり、町人だったり、様々でした」

信政と利通は、互いに眉を顰めた。

「私も気になる事があって、注意をしないとって思っていたところだったの。雪であまり外に出歩かないだろうから、然程広がらないとは思っていたんだけれど」

「万が一これが流行り風邪なら、死者を出す。患者が船にでも乗って移動すれば、他国にも広がる可能性があるな」

「そうね。直ぐに状況を調べましょう。くら先生に信政先生も力を貸してくれる」

隼人の言葉につむぎは頷くと、傍らの利通と信政に声を掛けた。

それから直ぐに平助や毅に信敬も加わって、総出で城下町の様子を調べ廻った。

「漁師が沖合で具合が悪いと嘔吐。本町に戻る途中で、高熱に咳。数日前から湊の町人町界隈に同様の症状が発生していたとの事」

「万町の果物市に出店していた男の、風邪に因る死を確認」

朝から昼に掛けて手分けして調べ廻った結果を、戻って来た皆が報告しあっていた。

「その漁師は隔離したのか」

「私の寺、寺町の寿敬院へ運びました」

信義の問いに、信敬が応えた。

「これは、流行り風邪で間違いないだろう」

「そうね、隼人さん。信義殿、和歌山城の宗直殿に直ぐにお知らせを。そして周囲の国への広がりを確認下さい」

「承知した。ところでつむぎ先生、子供達は一時、高明院に預けた方が良くはないだろうか。事と次第によっては、ここも戦場のようになろう。我々の誰かしらが罹患するとも限らない」

その言葉につむぎは、難しい顔をした。

「そうね。でも、三人の姉妹達は無理だわ。ここは安全だと言っても、未だに父親の影に怯えているでしょう。江戸には戻せない」

「それなら、私が責任を持って子供達の面倒をみます。安全な場所を指示頂ければ、そこで暫く皆で過ごすように致します」

はなが申し出た。

「ありがとう、分かったわ。飛礫、西の長屋に移す手配をして」

飛礫は身を翻すと、駆け出していった。

「くら先生は、私達と一緒に城下町に来て貰えるかしら。感染を広げない為に、各所に色々と指示を出したいの。口元は、三尺手拭いを巻いて対応する事。手はこまめに洗う。それから、自分の顔はやたらに触らない。何処から感染するか分からないから気を付けて」

「私は、宗直殿から医学校の者を動かして貰えるように頼もう。信政、共に来て貰えるか」

「かしこまりました」

信政は頷くと、信義に付き従った。

「私達は湊町から北を廻るから、たすく先生と毅は、信敬と共に寿敬院での受け入れ態勢を整えて」

「承知しました」

平助達が頷いた。一同は顔を引き締めると、それぞれの役目を果たすべく走り出した。

 

つむぎ達は城下町に出て、既に発熱などの症状が出ている者を寿敬院へ運んで隔離し、軽く咳き込み始めた者は、通気を良くした家に待機か、蔵紡城の東の一角に設けた八畳一間の二階建ての長屋に入れた。

「ちょっと、何処へ行くの。さっき、家に居ると言っていたでしょう」

「流行り風邪なら、多くの人に感染して命を落とす事だってあるんですよ。外に出ないで下さい」

つむぎ達は、症状の軽い者達の対応に苦慮していた。

「んな事言ったってなぁ。客が待ってるんだよ」

「流行り風邪って決まった訳じゃねぇんだろ。家族五人養わなきゃなんねぇんだ。余所者の先生が、口出しするな」

ほとんどの者が指示に従わなかった。

「咳や痰が出るなんて事は、誰だってあるだろう」

「子供は、私以外には懐かないのよ。とにかく、離れるつもりはないから」

口々に罵られた。

「用心に越した事はない。重症化すれば、あっという間に死ぬ事だってあるんだ。運悪く熱病が続いて脳をやられてしまえば、生きたまま屍になる。仕事なら後で私がいくらでもお願いして探してやる。だから今は、私達の言う事を聞いてくれ」

疱瘡を経験している平助の言葉は、誰よりも重かった。それでも、実感が少ない者達はあちらこちらに移動する生活をしていた。

 

「姐御、信敬の所に運んだ重症患者が次々に死んでいる」

「呼吸困難、脱水症状、熱症、この流行り風邪は、多くの人の命を奪います。各国に蔓延したら大事ですよ」

「江戸の兄上には、状況を知らせるべく使者を送ったわ。私達はとにかく、この紀伊国を守る事」

毅と信敬の言葉に、つむぎは強い意志で返した。

けれど、状況は日に日に悪化していった。

「兄上、どうされたのですか」

ある日、信政が顔を腫らして毅と共に蔵紡城に戻って来た。

「漁師の源三さんがどうしても船に乗ると言うので、押し留めようとしたら殴られました」

「あの野郎、咳き込んでるのに手拭いで口を塞ぐ事もしないし、俺は元来丈夫だから平気だって全く言う事を聞きやしねぇ。俺のからくり封鎖装置も、モリで突き壊しやがった」

信政を支えながら、毅が声を荒らげた。

「私は余所者だと話すら聞いてくれませんし、医学校の人達も源三さんには困っています」

「今のところ、あの人の周囲には感染者が出ていないけれど、あれだけ咳き込んで動き回っていたら時間の問題だな」

利通が眉を顰め、平助が嘆息した。

「私も、女医者なんて信用出来んと門前払いを食らったけれど、隼人さんが戸を蹴破って咳止めまでは飲ませたわ」

憤慨するつむぎの肩をやんわりと叩いて宥める隼人を見て、一同は苦笑した。

「母上、父上」

そこへ、血相を変えた菊が走って来た。

「どうしたの。こちらへ来てはいけないと言ったでしょう」

「はい。でも、はなの様子がおかしいの。呼んでも部屋から出て来なくて、母上達を呼んで来てって」

つむぎは驚いて、西の離れの方を振り返った。

 

その晩遅く、気温が下がり、つむぎ達は身を縮めながら疲れ切ったように蔵紡城へと戻って来た。

菊達は桔平に預け、暫くは宗直が健康な者達の避難場所として用意した、町外れの寺に移った。そしてはなは寿敬院に運ばれた。信義が付いて行くと申し出たが、

「私は必ず治って戻ります。信義様は、ご自身のなさるべき事をなさって下さい。城主なのですから」

と、固辞した。

「東と西。軽症者から確実に離していたのに、どうしてはなが感染した」

「軽症者は、外に出れば鳴子が鳴るようにしてある。はなは西以外は確かに移動出来たけれど、俺達とは触れ合わないようにはしていたし」

信義の詰問に、毅は原因が分からないと言うように応えた。

「井戸も台所も別。感染者がからくりを掻い潜って出歩いていない限りは、感染理由が分かりません。まさか、食用に摘んだ野草から発症したとも思えませんし」

「その鳴子を止めたのさ」

眉を釣り上げた飛礫がやって来て言った。

「日中、配下の者に用事を伝えて戸を開けた時に、鳴子が鳴らぬように飯粒で押さえたようだ。夜中に、東の方に行った奴がいた。普段なら監視の者達が目を光らせているが、今は人が少ないし、鳴子を信じて目が届いて居なかったのが現状。忍びが町人に出し抜かれるなんて、遺憾の極みだ」

その話にぐっと歯を食いしばり拳を握りしめた信義が、外に飛び出して行った。

「信義様」

利通と毅は、後を追った。

信義は、淡い月明かりにその影を見せる東の長屋の目前にやって来ると、睨め上げるように見つめた。

「よく聞け。私どもの目を盗み、勝手に出歩いた者に告げる。その行動のせいで、私の大切な者が感染した。万が一にもここへ戻らぬ場合、私はその者を許さぬ」

声を張り上げた。

「そなた達にも、大切な家族があろう。行動如何で、誰にでも感染する。そして、命を落とす可能性もある。己は軽症だから大丈夫であろうと慢心致すな。軽症だろうが、病んでいる事には変わりない。いつ、重症になるとも限らぬ。肝に銘じて、自愛せよ」

信義は言い切ると、瞑目して深く息を吐いた。

「信義様」

「本当に、人はなんと身勝手なのだ。つい先日まで、私は人の命を弄んでいたというのに、今は仏に願ってでも、その命を救いたいと思っている。ここに居る者達も、大切な者の為に心変わりを致すだろうか」

利通は、信義に頷いてみせた。

 

「皆で手分けして、源三さんの行方を捜して」

北風が吹き荒れる湊町で、つむぎは叫んでいた。

「こんな波が立っている日に漁になんて出られないのに、一体何処へ行ったの」

「赤ら顔だったと家族が言っている。発熱の可能性があるな。早く見つけ出さないと」

つむぎと隼人は、広い海辺を見渡しながら眉を顰めた。

「先生っ」

その時、源三が血相を変えて走って来た。

「舟小屋で、仲間が倒れている。意識がねぇんだ、来てくれ」

源三はつむぎを激しく手招くと、走り出した。

海沿いの穏やかな入江の近くに、漁の道具を収めておく朽ちかけた舟小屋があった。その中から、先に着いていた利通等が出て来て首を振った。

「亡くなられています」

「死んだって言うのか。一昨日、一緒に漁に出て、帰りに酒も酌み交わしたんだぞ」

信政がゆっくりと応え、源三は驚いて詰め寄ろうとした。

「その時の様子はどうでしたか。咳の症状は」

距離を保つべく手を伸ばして源三の歩みを押し留めながら、信政は聞いた。

「様子って、そりゃあ多少は咳き込んでいたけどよぅ。あいつは喘息の気があったから、毎度の事だと思ったし」

その言葉を聞いて、信政も利通も嘆息混じりに目を伏せた。

「何だよ。あいつも流行り風邪だったって言うのかよ。ずっとピンピンしていたんだぞ、俺みたいに」

「先日までピンピンしていたと言うのなら、あんたから感染した確率が高い」

平助が、源三を睨み付けた。

「何で、動き回った。流行り風邪は、誰にだって簡単に感染してしまうんだよ」

「そんな事言われたって、この通り熱もないし」

源三は戸惑いながらも数度咳き込んだ。

「その咳き込んだ時の唾。それが鼻や口に入れば、体力の無い者達には脅威になるのよ。だから、何度も何度も、あなたを隔離するって言ったの。症状がどんなに軽くても、感染している事には変わりないの」

「あんたぁ」

源三の女房が口元に手拭いを巻いて、息を切らせながら走って来た。

「先生もこちらにいらしたんですね。子供達が、皆してぐったりして。熱が高いようなんです」

その言葉に頷くと、利通達が走り出した。

「どうして、五人共か」

「どうしてですって」

女房が源三に険しい目を向けた。

「先生に言われて、皆して口元に手拭いを巻いて感染を防ごうとしていたのに、あんたが酔っ払って頬擦りしたりするから。子供やお年寄り、弱い者は守らないとならないって、あんなに言われたのに」

女房が源三の胸倉を掴んだのを見て、隼人が引き離して距離を保った。

その時舟小屋から、飛礫と毅が菰に包んだ遺体を抱えて出て来た。

「亡くなったの」

その光景を見た女房が呟き、目を見開いた。

「あんたが殺したのよ。子供達にもしもの事があったら、私があんたを殺すから」

泣き叫び、源三に再び食って掛かろうとするのを押さえ込むと、隼人はやって来た医学校の人に託した。

「つむぎ先生、伊勢街道及び紀州街道を封鎖したと連絡が入りました」

「封鎖? そんなに凄い事なのか」

「言ったでしょう、簡単に感染してしまうの。お伊勢参りで通る人達が、他国に運ばないよう、水際で防げる事は何でもやるわ。さぁ源三さん、あなたもその咳が治まるまでは隔離するわよ。今度は言う事を聞いて頂戴」

つむぎは強い口調で言った。

「つむぎ先生、寿敬院が受け入れ可能な人数を超えたと、信敬さんから連絡が入りました。子供達を何処に運びましょう」

「おい、それは俺の子達の事か」

報告に来た利通に、源三は狼狽えた。

「俺が隔離されようとしている所では駄目なのか。俺は構わないから、子供達を何とか助けてくれ」

利通に走り寄りそうな源三を、つむぎが押し留めようとした刹那、

「女先生も頼む」

源三は、振り向きざまにつむぎの腕を掴んだ。咄嗟の出来事で体勢を崩したつむぎの口元の手拭いが外れて地面に落ちた。

「頼む頼む頼む」

そんなつむぎに構わずに、源三は手を取ったまま叫び続けた。その唾が、無防備となったつむぎの顔に降りかかる。

隼人が慌てて源三を背後から引き離したが、つむぎは大きく嘆息して天を仰いだ。

「隼人さん、くら先生、後を頼んだわ」

「後を頼んだってどういう事だ。ちゃんと、子供達を見てくれよ」

「いい加減、人を巻き込むのは止めて下さい。手拭いが無いのなら、口元に手を当てる。さもないと、また感染者を増やします。医者の私達も、例外では無いんですよ」

尚もつむぎに言い寄ろうとする源三に、利通は堪忍袋の尾を切らせて、声高に叫んだ。

「そんな事で感染して、大事になるのか」

「そうよ」

つむぎは、隼人が差し出す竹筒で口を濯ぎながら応えた。

「直ぐにこうして対処すれば感染しない事もあるけれど、発症するか否かは暫く経たないと分からないの。でも私は医者だから、万が一を考えると、もう他の人と接触する事は出来ません。源三さん、私と一緒に蔵紡城の隔離部屋に行きましょう。隼人さん、くら先生、後を宜しくね」

つむぎは口を結び再び手拭いを巻くと、歩き出した。

「すみません、子供達をよろしくお願いします」

源三は項垂れると、二人に頭を下げて肩を落としながら、とぼとぼとつむぎに付き従った。

 

「息苦しさを感じる人は、遠慮なく言ってくれ。からくりで按摩して、楽にしてやるぞ」

「薬の量を減らす事は出来ませんが、苦ければ少し砂糖を加えましょう」

「未だ少し熱が高いですね。もう暫くは薬を飲み続けて安静にしていて下さい」

それぞれが、自分の役目をしっかりと果たしていく。その真剣な思いはやがて浸透し、皆は耳を傾けて病と対峙し始めた。

「先生、だいぶ良くなって来たから、もう家に返してくれ」

「お母ちゃんに会いたいよ」

「薬が苦過ぎて敵わん。これ以上飲みたくない」

それでも人が増えると、わがままも増える。一人が何か言い出せば、何人も後に続く。

「もう嫌だ。お母ちゃんの所に帰る」

薬の順番を待つ男の子がぐずって泣き出し、寿敬院の階段を駆け降りて行った。

「待って」

気付いた利通が慌てて後を追い掛け、腕を掴んで引き留めた。けれど男の子は、勢いよく振り払おうと必死に抵抗した。

「こらこら」

頭ごなしに怒鳴らずに、男の子の視線の高さに屈んでにこり微笑んで見せた。

「君は未だ、咳がたまに出るだろう。今戻ると、お母さんが今度は寝込んでしまうよ。それでも良いのかい」

じっと男の子を見据えると、男の子は大きく首を振った。

「それなら、きちんと薬を飲んでお部屋にいよう。直ぐに良くなるから」

「本当?」

「うん。咳が止まったら、直ぐにお母さんを呼んであげるよ。だからもう一度薬の順番を待とう」

「分かった」

男の子はコクリ頷いた。

 

それから十日が過ぎ、新たな患者も現れなくなり、流行り風邪は確実に収束に向かっているようだった。

「海から尾張に飛び火をしたようだが、公方様から早々に各国に知らせが入っていたようなので、大きく広がる事は無かったようだ。宗直様から、良くやってくれたと労いの言葉と、報奨金を頂いた」

信義が、皆を前にして告げた。そこには、隔離部屋から出たつむぎの姿もあった。

「本当に、皆頑張ったわ。ありがとう」

つむぎは皆を見廻して、頭を下げた。

「源三さんもあれから大人しくしていたし、子供達も快癒したわ」

「はなも、明日戻る」

信義は、心底嬉しそうに告げた。

「それでも、三百人近くの命が失われた。自身が病に伏せぬ限り、その辛さや苦しみが解らぬ者が多かった。今回の事で色々と学んだろうが、時が経てば風化する。また、同じ事を繰り返さないよう、日頃から教え伝えないといけないな」

「そうね。目に見えない病の素があなたの中に潜んでいると言われても、症状が軽ければ大丈夫だろうと高を括る人は、これからも出て来るわよね」

隼人の言葉に、つむぎは大きく頷いた。

「くら先生と信政先生には、折角長崎から来て頂いたのに、いきなり酷使してしまって御免なさいね」

「いえ。私も兄も医者ですから」

「色々と学ばせて頂きました」

「そう言って貰えると、嬉しいわ。これから長崎に戻るの」

つむぎは二人を見つめた。

「父が隠居したと、母から文が届きました。互いに親不孝してしまった分、出来る事なら報いる事をしたいとは思っていますが、どうしたものかと」

信政は利通と顔を見合わせた。

「それなら、この地へお迎えなさいな。この蔵紡城の一角でも良いし、たすく先生のように近くに家を構えても良いわ。新しく、家族でやり直しなさい」

「それは有り難い話ですが、父が承諾するかどうか。利通はともかく、私は」

「確かに過去の過ちは消せない。なれど、今は互いに人の思いに寄り添い、共に歩んでいる。信政、私も口添えいたそう」

「有り難うございます」

信政は、信義に頭を下げた。

「兄上、私はここに残りたいと思います。長崎では、与えられた医学書を必死に覚える生活でしたが、医者は人と触れ合って初めて成長していきます。つむぎ先生と再会して、それがはっきりと分かりました。私はここで皆と共に、これからも切磋琢磨していきたいです」

「そうだな。つむぎ先生、私も利通もこちらにお世話になっても宜しいでしょうか」

「喜んで」

つむぎは、にこり微笑んだ。

 

「父上、飛礫と毅さんと猪狩に行って参ります」

「そんな危ない事はさせられない。菊、行くならたすく先生と薬草採りにしなさい」

大掛かりなからくりを押しながら北の方へ向かっていく飛礫と毅を指差して言う菊に、隼人が薬草採りに行くべく籠を背負っている平助を指差した。

「たすく先生はその後で、さち様の所へ行かれます。仲睦まじいところを邪魔したら悪いです」

そう言って、菊はぷぅっと頬を膨らませた。そんなませた菊の言葉に目を瞬きつつも、

「ならば信義様の元にお行きなさい。信政先生と薬研を転がしておいででしょうから、はなと共に子供達と遊んでおあげなさい」

「分かりました父上」

大きく頷くと、菊は履き物を脱いで部屋の方へと走って行った。

「全く。ませた言葉を何時の間に覚えたのだろうか」

「本当に。誰が教えたのかしら」

「成長が早いですね」

くすくすと笑いながら隼人の隣にやって来たつむぎと信敬は、目を細めて菊を見送った。

「つむぎ先生、薬草を摘みに行って来ます。何か必要なものはありませんか」

「そうね。今回の事で咳の薬を結構使っているから、葛根に南天に金柑をお願いするわ」

「承知しました」

頷くや平助は、籠を背負うと母屋の外へと出て行った。

「たすく先生も、即戦力になりましたよね」

「劣等感の塊だったのに、多くの人を救って来て自信がついたのよ。根は優しいから、最近では子供達にも人気だし」

信敬の言葉に、つむぎは微笑んだ。

「そう言えば信敬、和尚様がこちらへいらっしゃるって本当なの」

「えぇ。何でも足腰が弱らぬうちに蔵紡城を見たいと仰せの方を、伴って来られると」

「それって、まさかとは思うけれど、戸田山城守様じゃあないでしょうね」

つむぎが顔を引きつらせた。

「兄上や、大岡越前守様まで来るとか言い出さないでよ」

「それは無いとは思いますが。それでは、私は今日のところはこれで」

苦笑しながら頭を下げると、信敬は出て行った。

 

「こちらにいらしたんですね」

奥から利通が出て来た。

「診察当番なので、城下町を廻って来ます」

「御苦労様。あ、そうだわ。あなたに文が届いていたの」

つむぎは懐に入れていた文を取り出すと、利通に差し出した。

「私にですか、誰からだろう」

受け取り、差出人の名を見て、利通は息を呑んだ。『近江国 尾崎美和』と認められていた。

慌てて開くと、幕府を介して紀伊国の流行り風邪の事を知ったと書かれていた。

病の根絶に当たっている医者の名に利通や信政が上がっていた事に触れ、自国に万が一にも広がりを見せた時、どう対処していけばよいかの教えを乞う内容であった。

「何はともあれ、話すきっかけが出来て良かったじゃない」

「戻り次第、返事を書きます」

文を手持箱に忍ばせると、利通は笑顔を見せた。

「それにしても、月日が経つのは早いですね。つむぎ先生と出会ったのが昨日のように思えるのに」

「くら先生と出会ったのは真夏よ。昨日じゃないわ」

「季節で言えば、そうですね」

利通は笑って天を仰いだ。つむぎと出会ってからの事が、走馬灯のように蘇る。様々な出来事があり、一つずつ乗り越えて今日がある。

「お陰様で、両親も春先にはこちらに来ると申しております。先生に出会わなければ、私も兄もこうして幸せな日々を送る事はなかったでしょう。本当に感謝しております」

「私はただ、きっかけを作っただけ。その後の人生を紡いだのは、あなた達自身」

つむぎは優しい目を向けた。

「ここでの生活も、兄が公方様として世を治めている間だけの事かもしれない。それでも、しっかりと先を見据えて歩んでいくの。培って来たものは糧になり、自身を導いていくわ」

「はい」

利通は大きく頷いた。

「じゃあ、行って来ます」

「行ってらっしゃい。源三さんに会ったら、あまり羽目を外さないようにって伝えてね」

「心得ています」

応えて、利通は出て行った。

「気が付いたら、江戸とほとんど変わらない暮らしになって来たわね」

「それは、君の人柄に皆が共感して付いて来るからさ。これから先も命の灯が尽きるその日まで、何処で医者を続けようと、私を含めて皆が側に居るだろう」

「嬉しい事だわ」

つむぎは隼人に言って外に出ると、近くの梅の木を見上げた。

「あら、一輪咲いたわね。もう、そこまで春が来ているのね。さぁ、私も薬研転がしの手伝いをして来ようかしら」

大きく伸びをして眩しそうに天を仰ぐと、つむぎは隼人と共に母屋に入って行った。

 

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