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*   *   *

「はいはい、何時までもお正月気分で寛がないの。ここは寄合場所じゃないのよ。お天道様の光に当たって、健康的に過ごしなさい」

小正月を過ぎて未だ雪が降る日があるものの、草木も芽吹き始めていた。少しずつ春の兆しが見えてきているものの、診療所には未だ毅のからくり座布団で暖を取るべく、長屋の者達が集まって来ている。そんな姿を見てつむぎは、外に出るようにと追い立てた。

「朝から威勢がいいねぇ、つむぎ先生は」

小川笙船がつむぎを訪ねてやって来た。

「あら小川先生、今日はお早いこと」

「漸く、施薬院の設置要望書を認められたのでな。目安箱へ投函しに行く前に、つむぎ先生にも一筆添え状を頼みに来たんだ」

「そう、とうとう決断したのね。ちょっと待っていて、直ぐに書いて来るわ」

告げて奥に入って行くと、暫くして一通の書状を持って出て来た。

「これを投函する時に、はみ出すように立てていれると、目立って先に読んで貰えるんじゃないかしら。実践してみて」

「承知した。それに、つむぎ先生のお墨付きとありゃあ千人力だ。では行って参る」

笙船は胸元に書状を差し込むと、颯爽と診療所を出て行った。

「つむぎ先生、私も兄に薬草の本を届けに高明院まで行って来ます」

草履に足を差し入れながら、利通が声を掛ける。

「行ってらっしゃい。あぁ、もし毅を見かけたら、診療所に立ち寄るように言って。頼み事があるのだけど、ここ数日顔を見せないのよね」

「わかりました」

応えて利通は、つむぎの背後で薬研を転がしている平助をチラリ見た。

平助と顔を見合わせて目配せし合うと、利通は風呂敷包みを抱えて診療所を後にした。

 

品川で桂隼人という右隻眼の男を船上に確認して以来、つむぎは怖いくらいに元気だ。だが診療所が退けて夜を迎えると、早々に部屋に籠もってしまう。何かを思案しているようだが、利通が尋ねてもつむぎははぐらかして応えようとはしなかった。

「毅さん、桂隼人という方をご存知ですか」

「どこでその名を」

数日してやって来た毅に尋ねると、酷く驚愕された。

「先日品川から船で出て行くのを、つむぎ先生が見つけて以来、何か様子がおかしくて」

「ちょっと待った。生きていたっていうのか」

利通の言葉を制して、毅は真顔を向けた。

「先生も、そんな事をおっしゃっていましたが」

「本当かよ」

絶句し、自分からはこの件については何も語れないと口を閉ざすと、そそくさと診療所を出て行き、その後は顔を出さなくなってしまった。

「桂隼人、自分は聞いた事がないなぁ」

平助は、利通に尋ねられて首を振った。

「でも、毅さんは知っていたんだよな」

「あぁ。本当に生きていたのか、見間違いじゃないのかって、何度も確認された」

「それならほら、高明院で話が出た、つむぎ先生の守り役だったって人の事じゃないか」

暫し考えて、平助はそう言った。

「誰が放ったか知れない刺客にここを急襲された。守り役も、一緒に盗賊から救われた仲間達も斬り捨てられたわ」

利通の脳裏に、その時のつむぎの言葉が蘇った。

「明日、兄に用事があって高明院に行く予定でいたから、和尚様か信敬さんにも会って、話を訊いてみるよ。たすく先生には、つむぎ先生の動きを見張っていて欲しい」

そう、利通が平助に頼んだ経緯があった。

 

昼前に高明院に到着した利通が境内に向かうと、信政が掃き掃除をしている姿が見えた。

「兄上」

声を掛けると、信政は晴々とした表情を向けた。

「あぁ、利通。ここは素晴らしいな。あちらこちらに薬草が自生しているし、先程は鶯がぐぜり鳴きをしながら飛んで来たよ」

「あっという間に、春の気配ですね」

利通は、眩しそうに空を見上げた。

雲雀が数羽囀りながら木々の合間を飛び交っているのが見えた。

「信義様は、どう過ごされているのですか」

「今は、門前町のはなという女の子に、文字を教えていらっしゃる。つむぎ先生が勧めて下された玄米を召し上がるようになってから、脚気衝心の症状も和らいで来て、穏やかに過ごしておられる」

そう言って信政は、本堂の方に目を向けた。

信義がはなと向かい合い、差し出された右手にゆっくりと自身の手で文字を書き記していた。

「目が悪くて、まともに読み書きを教わっていないのだそうだ。毅さんと私で、少しでも視力が改善する眼鏡を作ってみようと試行錯誤しているところで、ならば見えたその日の為に、文字を覚えた方が良いと信義様が、ここ数日毎日のように」

はなも信義も笑顔だ。

そんな信義を、信政は眩しそうに見つめた。

「私も色々と書物を読み漁って、知識を習得しているところだ」

「兄上。頼まれていた本です」

利通は風呂敷包みを信政に手渡した。

「あぁ、助かるよ利通。そうだ、私の部屋にさっき摘んだ薬草がある。少し持って行くといい」

利通は離れの信政の部屋に向かい、薬草を風呂敷に包むと部屋を出て歩き出した。

「熊、お前は知っていたのか。隼人さんの事」

廊下の角から、聞き慣れた声がした。利通がそっと覗くと、毅が信敬を問い詰めているところであった。

「和尚様とご老中戸田山城守様が話されているのを立ち聞き致しました」

「何時の事だ」

「あの事件から二ヶ月くらい過ぎた頃です」

「何で黙っていた。姐御がどれだけ隼人さんを慕っていたか、お前は知っているだろう」

毅は信敬の胸倉を掴んで揺すった。

「毅さん」

「くら先生」

慌てて割って入る利通に、毅は驚いた。

「その隼人さんの事、私にも聞かせて貰えませんか」

利通に懇願され、毅と信敬は互いに顔を見合わせた。

 

「ここが、当時の姐御の部屋だった場所だ」

利通は、離れの奥の十畳ほどの部屋に通された。

北向きの昼間でも陽の当たらぬ寒々とした薄暗い部屋であることに、利通は驚いた。

「守る側としては、ここが最適だったのです」

信敬は話を継ぎ、利通に座布団を勧めた。

利通は座すと、正面の庭に目を移した。外に出て一間もしない所に、木々の合間から高い塀が見えた。左右には行き来出来るようだが、木々が鬱蒼と繁っていて、離れというよりは隠れ家のような感覚であった。

「隼人さんは、守り役として公方様より命ぜられてやって来た公儀御庭番衆のお一人で、こちらには三年ぐらい居りましたでしょうか」

「待って下さい。公方様は当時、未だ紀州藩におられた頃ですよね。何故、御公儀が動かれたのですか」

利通は、素朴な疑問を投げ掛けた。

「前公方様のご兄弟は、みな早世。前公方様自身も、蒲柳の質だったそうだからな。それで御三家からの後継が考えられた訳さ」

応えて、毅は嘆息した。

「盗賊の生活から解放されて、皆穏やかに暮らしていたのです。終の住処を定める事は、なかなか出来ませんでしたが、それでも幸せでした」

信敬は口を結ぶと目を伏せた。

 

少し大人びた凛とした佇まいのくらの前に、毅と熊に連れられた、くらと同じぐらいの年齢で、菊という名のおとなしそうな少女が、泣きじゃくりながら座っている。

「大前屋さんから戻された、ですって? どうして。あんなに旦那様や奥様に気に入られていたのに」

「又ですよくら姉。盗人が入って、菊は手引きを疑われたそうです」

熊の言葉を聞いて、くらは小さく頭を振りながら宙を仰いだ。

「好きで盗賊に居た訳じゃねぇのに。七年経っても、過去が俺たちを縛りつける」

「ごめんなさいお姉さん」

菊は泣きじゃくりながら手をついて詫びた。

「菊、お前のせいじゃない。泣くな」

熊はそう言って、菊を支えた。

「姐御、やっぱり駄目だ。和尚様の力を借りても、俺達を引き取る先の警戒心は強い。何かあれば、こうして真っ先に疑われる。俺や熊も養子縁組を拒まれたし、他の者達も戻って来ちまった」

「くら姉、どんな手伝いでもするから、和尚様に頼んで、ここで皆して暮らさせて貰う事は出来ないかな」

「そうね」

くらは小さく頷いてみせた。

「それなら和尚様に頼んで、敷地の一部をお借りして皆で何か始めましょうか。毅、皆を集めてくれる。何がしたいか、何が出来るか話し合いましょう」

くらはにっこりと微笑んだ。

 

「薬売りを始めるのか」

「和尚様からお借りした本草学の書物を読んで思ったの。ここには薬草がたくさん自生しているから」

「確かにな。宝庫とも言える」

毅は、広大な敷地に自生する草木を見渡した。

「和尚様が好きに使って良いと言ってくださったから、薬を作って門前町で旅をする人に売って貰えれば、生活の足しにもなるでしょう」

「そうだな。じゃあ熊、俺達はこのからくりで触れずして実を落とすぞ」

「それ、雷に打たれたような衝撃を与えるものだろう。獣はともかく、草木は駄目だろう。下手すれば、火事にならないか」

毅が手にするからくり箱の銅線を手にして熊が異を唱えたその時、虚無僧が一人、階段を上がりこちらに向かって真っ直ぐに歩いて来るのが見えた。その異様な雰囲気に皆が呑まれ、くらを中心に固まった。

「くら姫だな」

その様子を見て虚無僧はくらを見定めるや、仕込み杖を抜いて迫って来た。

「熊っ」

熊が放った銅線が虚無僧の腕に絡み、それを見た毅はからくり箱を勢い良く廻した。

虚無僧の身体に強い衝撃が走り抜け、思わず仰け反った。

「次行くぞ」

毅が叫ぶや、虚無僧は舌打ちして踵を返すと走り去って行った。

「和尚様ぁ」

「何事じゃ」

「お姉さんを狙った虚無僧が」

走り来た和尚に、菊等が叫んだ。

 

「皆と一緒でなければ、紀州藩邸に入る事は承諾出来ません」

本堂で和尚と向かい合い、くらは大きく頭を振った。

「しかしのぅ、このままでは他の者達にも累が及ぶやもしれぬ」

「ですから、それなら皆も一緒に紀州藩邸へ入れるようにして下さいと、先ほどから申しております」

くらは一歩も引かぬ構えで、和尚と対峙している。

「皆は、連れては行けぬ」

「何故ですか」

「身分を弁えなされ、姫様」

突然に野太い声が聞こえて、かくしゃくとした狡猾そうな白髪混じりの武士が、のそりと入って来た。

「これは、ご老中戸田山城守様」

和尚が身を引いて頭を下げるのを制しながら、老中と呼ばれた戸田山城守は、くらの目前に歩み寄ると、その場に腰を据えた。

「姫様が何を言われようと、その生い立ちは変わりません。現公方様の後見を尾張や紀州が争っており、たとえ御身が女子であろうと、立ちはだかる者が姫を消そうとする可能性は考えられます」

「今まで私の存在すら気に留めて来なかった人達が、どうして今更。皆と……仲間達とただ平穏に暮らしたいだけです」

くらは、ぷいと横を向いた。

山奥に隔離されるように育ち、盗賊に襲われその身が攫われても気付く事なく、何年もして盗賊改め方の手入れで事情を知り、慌てて取り繕おうと右往左往するとは如何なものかと、くらは怒りを覚えていた。

「私は、その辺の事情は知りませぬ。なれど姫様がどう思おうと、その血筋が知れ渡った以上は逃れられぬ定めでございます」

「あなた方がどう思おうと、皆と離れるつもりはありません」

くらは、横を向いたまま強い口調で突っ撥ねた。その頑ななまでの態度を見て、山城守は一つ嘆息した。

「ならばこちらも譲歩致しましょう。ですが、これから申し上げる事は必ず呑んで頂きますぞ。今日よりこちらに公儀御庭番の者を数名、姫様の守り役として配置させて頂きます。入れ」

短く命じると、音も無くすっと黒尽くめの男が入って来るや、山城守の背後に控えた。

「この者がその長にございます」

言われてくらは、男に視線を向けた。薄らと切れ長の目は見えたが、顔の全体を拝む事は出来なかった。

「名前は」

くらに問われても、男は微動だにしない。

「姫様、この者は影。影に名は必要ございませぬ」

「どんな動植物にも、このお堂の中の総ての物にも名は存在します。それに私の守り役ならば、皆とも打ち解けて貰わねば困ります。名前と顔を明かして下さい」

微動だにしなかった男の瞳が、驚いたように揺れるのが分かった。

山城守はくらの揺るぎない思いに失笑すると、男に「ご挨拶を」と、振り返りもせずに告げた。

男は小さく頷くと、くらに視線を合わせた。口元に巻かれた三尺手拭いを下げると端整な輪郭が現れた。二十五、六だろうか、未だ若い。影として殺伐とした世界に身を置くとは思えぬ穏やかな顔付きだ。

「本日より、くら姫様の守り役を務める桂隼人にございます。お見知りおきを」

澄んだ通る声だった。

「立ってみて貰えますか」

くらはじっと隼人を見つめる。隼人は言われるままに、すっくと立ち上がった。その背の高さにくらは目を瞬き、己も立ち上がって隼人の前に歩み寄った。

「わぁ、背が高いのね」

「五尺七寸あります。姫も直ぐに、背が伸びられますよ」

目を細めるのを諫めるかのように山城守が咳払いをし、隼人は又口元に手拭いを巻くと控えた。

 

「くら姉は私達を怖がらせないように、極力隼人さんを皆に引き合わせておりました。当初は桂さんと呼んで」

信敬も毅も、隼人を兄のような存在だったと言った。

「それがある日、怪我をした狸を保護して隼人さんが診療という力を発揮してから、関係は師弟関係のようになっていった」

「彼等は、自身で身を守りますから。医術にしても薬にしても、精通していたんです」

「だから、姐御が隼人さんを尊敬して、次第に恋心を抱く事も理解出来た」

「つむぎ先生が恋」

利通が素っ頓狂な声を上げる。

「想像出来ないだろう。姐御自身も隼人さんに最後まで気持ちを打ち明けなかったからな。でも俺達はずっと一緒に過ごして来た仲だから、分かった」

「くら姉はずっと、私達を引っ張って来て下さいましたからね。自身を引っ張り、見守って下さる隼人さんには、本当に素直に心を開いておいででした」

「隼人さんの、つむぎ先生に対する想いはどうだったのですか」

利通の問いに、毅と信敬が顔を見合わせる。

「正直分かりません。温かい視線は崩しませんでしたが、それがお役目としてだけなのか否か」

「何時まで続く暮らしなのかも分からなかった。でも、姐御の為にはずっと続いて欲しかった」

毅が膝の上で、拳を握りしめた。

「前公方様が風邪を拗らせてご危篤との知らせが和尚様の元に参りました。合わせて、次期公方様の候補の筆頭が紀州藩吉宗様である事も。その晩、第一の刺客が襲って来て、くら姉を逃がそうと身代わりになった菊が斬られました」

利通は衝撃を受けた。

「隼人さんが直ぐに撃退に転じて、菊を斬った一人を追い詰めて右腕の腱を断ち切った。止めを刺す瞬間に、姐御が飛び込んで来て、その人はもう戦えない、これ以上、私の為に無益な血を流すのは止めてって叫んで、菊を斬った奴だというのに、治療してここに留め置いた。確か飛礫(つぶて)という名だった」

毅が苦々しげに言った。

「第二の刺客は、それから三日後、前公方様が亡くなったその日に総攻撃をかけて来た。隼人さん等は、姐御のみならず俺達全員を庇って応戦する事は、難しいようだった」

 

「良いか、わしの懇意にしている者が、万が一の時には沖に船を出す手筈を整えてくれている。先ほど合図は放った。お前達はバラバラに海の方に逃げよ。その者が、後は手助けしてくれよう。毅と熊はくら様を頼む。私は、ここに逗留されている他の方を逃さねばならぬでな」

和尚は部屋に居る皆を見回して告げると、そのまま部屋を出て行った。

「バラバラなんて駄目よ、皆して行きましょう」

「十二人も一緒じゃ、目立っちまって無理だ姐御。かえって標的になっちまう」

その時、刀を切り結ぶ音と走り来る足音が聞こえて来た。

「散るぞ。走れ」

毅が叫ぶや、庭先から皆が四散して行く。

「駄目よっ」

「くら姉、皆を信じて。行きましょう」

熊が手を引き、毅が背を押して走り出した。

 

「裏から下に降る隠れ道がありましたが、そこは既に戦いが繰り広げられていて、仲間達はそれを見て皆、表門の階段に向かいました。でもそれは罠で、待ち伏せされて」

「皆、斬り捨てられた」

吐き捨てる毅の顔が、くしゃりと歪んだ。

「姐御が悲鳴をあげて、俺達の手を振り払って走り出した。途端に矛先が一斉に姐御に向けられて。もう駄目だと思った刹那、隼人さんが盾になるように飛び込んで来て、右眼を斬り付けられたんだ」

「くら姉は酷く取り乱して。手当てを拒みとにかく逃がそうとする隼人さんは、裏は片付けたからもう一度そっちに向かうようにと、私達の背を押しました」

 

「姫、早くお逃げ下さい。毅、熊、頼んだぞ」

白刃を振り翳し、潰れた右眼から血を流しながら隼人が叫ぶ。

「姐御、早くこっちだ」

「嫌よ。桂さんが一緒じゃなきゃ嫌」

「駄目です、くら姉。早く」

「私は、姫なんて呼ばれたくない。普通にあなたと暮らしたいの。もう、私の為に誰かが傷付くのは嫌。桂……隼人さんっ!」

 

「姐御が隼人さんに手を伸ばして、初めて泣いたんだ。それでも俺達は、姐御の手を引いて無我夢中で裏手に走った。そんな俺達に手を貸してくれたのは、姐御が助けた飛礫だった」

「借りは返した、そう言って道を切り開いてくれました」

「それで、その飛礫という人は」

「分からない。でも、お陰で俺達だけは生き残ることが出来た」

毅と信敬は、違いの顔を見た。

「隼人さんは、その時に命を落としたと」

「あぁ。そう俺達は、山城守様から聞かされた。でも、実際は生きていたんだよな。あの狸親父め」

毅が憤慨する。

「まぁ、吉宗様が公方様に収まった途端に、又穏やかな日常が戻って来た。でも失った仲間は戻っては来ないし、暫くして姐御は医者になる為にここを出ると言った。俺は追随し、熊は皆の菩提を弔うと、出家してここに残った。これが総てだ」

「つむぎ先生は、この件をどうされると思いますか」

「隼人さんへの想いが今でもあるのなら、先ずは隼人さんが死んだと告げた山城守様に喰って掛かるだろうな。だから和尚様に、姐御の守袋を預けに来た。あれは、ご公儀に繋がる手形のようなものだから」

成る程と思いながら、利通ははっとした。

「今朝、小川先生が目安箱に施薬院の設置要望書を出しに行くので添え状を書いてくれないかと、つむぎ先生を訪ねて来ました。まさかと思いますがその添え状、公方様へのこの件についての談判状とかになっていないですよね」

「しまった、その手があったか」

叫んで、毅が一気に蒼褪めた。

「目安箱は、直に公方様が目を通すんだ。如何にご老中とて手が出せねぇ。姐御の方が一枚上手だった。騒ぎになる前に戻るぞ、くら先生」

「ご武運を」

立ち上がる毅と利通に、信敬が合掌した。

 

高明院の階段を神妙な顔付きで駆け降りる毅の後ろを付いて走る利通は、少し下の方で手拭いを頬被りして籠を背負い、左手でひょいひょいと辺りの小枝を拾っては籠に投げ入れる男に気付いた。こちらに視線を向けてはいないが、距離を保つように降り下りながらの動作であった。その男の右腕はだらんとして動かぬ様子だ。

「毅さん、すみません。あの男の人に見憶えはありませんか。身のこなしが、ちょっと普通に思えなくて。右腕が使えないようです」

言われて毅が顔を上げて男を確認すると、男はさっと踵を返すや、たたたっと階段を駆け降りていった。

「あいつ、飛礫じゃねぇか。奴も生きていたのかよ。追うぞ、くら先生」

「はい」

二人も勢いよく、階段を駆け降りた。

だが相手は忍び。あっと言う間に、人の流れに行方を眩ませてしまった。

「参った。本当に参った」

実際に己が目で飛礫を確認し、隼人の生存をも確信した毅が、ずっとそう呟きながら、利通と共に診療所まで急ぎ戻って来たのは、西日が深く差し込む夕刻であった。

診療所の前に立つや、毅は周囲を注視した。

「特に変わりない日常風景だな。間に合ったか」

利通と頷き合ったその時、

「その風景とやらを書き換えに来たぞ」

音もなく忍び寄る影に肩をポンと叩かれ、毅は硬直した。

そして恐る恐る振り返ると、そこには俳諧師の出で立ちをした山城守が一人、憮然とした面持ちで立っていた。

「や、山城守様……」

辛うじて言葉にして色を失う毅を見て、目前の俳諧師姿の男が山城守と知った利通は、慌てて頭を下げた。山城守はそんな二人を見据えると、二人の間を掻き分けるようにして診療所の前に立った。

「御免」

腹の底から声を発すると、躊躇なく戸を開いて中へ入った。利通と毅が、慌てて後を追って中に入る。

「あら、お揃いで」

つむぎは来訪が分かっていたかのように、居間に敷いた座布団の上で、こちらを向いて寛いでいた。その自身の前にも座布団が人数分用意されており、その中央は毅のからくり式のものであった。平助はつむぎの背後に控えるように座しており、面目ないといった顔付きだ。

「どうぞ」

つむぎは山城守に、そのからくり式座布団を勧める仕草を見せた。

「私に、小細工なんぞ通用しませんぞ」

山城守は仕掛けを看破したかのような物言いをして、板敷にそのまま座すと、利通等を振り返って手招いた。

二人は首を窄めながら、そっと背後に着座した。

「目安箱を連絡目的に使われるとは、恐れ入りました」

「それが、兄上からの指示だもの。直接の連絡がある際には、目安箱から少しはみ出すように、日本橋蔵紡診療所医師つむぎと記して入れておくようにと。大岡様からそう伝え聞いたわ。だから、それを小川先生に託して実践して貰っただけよ」

つむぎは、さらりと言い返した。

「にしても、鍵開けの日でもないのに、既に公方様がお手にされているというのは、一体どういったからくりでございますかな」

「さぁ、そこまでは」

つむぎは、はぐらかすように微笑を浮かべながら首を傾げた。

「それで姫様は、私が桂は死したと告げた理由が訊きたいのですかな」

「それは、あの人が生きていると知った時に、自ずと分かったわ」

つむぎは柔らかに言った。

「忍びは影に潜むもの。護るべき私の側に絶えず姿を見せる事は、敵に私の存在を確信させる事に繋がる。それがあの襲撃ではっきりと分かったから、影の使命に戻る事を選んだのでしょう」

山城守は、「ほぉ」と感嘆した。

「だから、私が知りたいのはそんな事じゃないの。兄上が頼れとおっしゃるから、今まで診療所の薬の手配や、新吉原の一件、くら先生のお兄様達の捜索に手を貸して欲しいと頼んだけれど、実際に動いていたのは隼人さんなのでしょう」

つむぎは、非難するような視線を向けた。

「隼人さんは、あの目ではもう御庭番としては務まらないでしょう。なのにどうして今も、私の影となる事を認めているのですか」

「それが、今の世の習いですから」

ぴしゃり言って、山城守はつむぎを見据えた。

「世を変える力があるのは、公方様のみ。その例をあげるのであれば、未だ記憶の新しかろう犬公方と称された綱吉公」

「女の私が、公方様になれる筈もないでしょう」

「笑止」

間髪を容れずに山城守が言った。

「過去には女の天子様がおられた時代もありますし、権現様の時代には、女領主井伊直虎という強者もおられました。心構え次第かと存じます」

そう言って山城守は、利通等に視線を配った。

「皆と共に暮らしたい。姫様はそう仰せられました。この地でこうして医者として生活をされてはおりますが、姫様の存在を知っております者がこの世間におる以上、いつ襲撃を受けられてもおかしくはないのですぞ。支える者なくして、たったお一人でこの者達を護り通せますかな」

つむぎは、言葉を返す事が出来なかった。あの日のように今ここを襲撃されれば、自身の力では盾になる事すら適わないだろう。つむぎは己の非力さを痛感すると、きゅっと唇を噛んだ。

「それでも」

つむぎは顔を引き締めて居住まいを正すと、山城守を真っ直ぐに見つめた。

「隼人さんが、私の為にその身を削って奔走する姿は、忍びありません。ですから、隼人さんと逢って話をさせて下さい」

そう言って、平伏した。その姿に、山城守は嘆息した。

「あの日彼奴は、右眼の視力を失って御庭番を解任されました。功績を買い、国許でゆるり暮らせる手筈を整えてやったというのに、これからも姫様を護りたいと、自ら固辞致した。こちらが、縛り付けている訳ではありませぬぞ」

その言葉に、つむぎは驚いたように目を見開いた。

「今は敵であった飛礫とやらと共に、紀州藩預かりとなって江戸と紀伊を行き来しております。呼び戻しますゆえ、半月後の正午に高明院の姫様の部屋だった場所へおいでなされ」

言うや、山城守は立ち上がった。

「送ります」

「よい。日本橋に駕籠を待たせてある」

慌てて立ち上がる毅に告げると、山城守は草履に足を乗せた。

「ただ彼奴は、表で生きる事は望んではおりませぬ。付いて行くのなら、今のこの暮らしは捨てねばなりませぬぞ」

振り返らずに言って、そのまま外へ出て行った。

難しい顔をして座したままのつむぎに、利通達は視線を向けた。つむぎの隼人への返答次第では、この診療所は閉じる可能性がある。

「心配しないで。あなた達の事は、ちゃんと考えるから」

視線に気付いて、つむぎは微笑んだ。

「さて、夕餉の支度をしましょうか」

つむぎはつっと立ち上がると、何事もなかったかのように奥へ入っていった。

残った利通達は互いに顔を見合わせ、毅が手招きをした。

「姐御は強がりだから動揺を表に見せないが、内心は隼人さんの出方に不安を抱いて居ると思う。当日は俺達も高明院に……」

「半月後は絶対について来ないでよ」

すらり襖戸が開いて、つむぎが釘をさした。

 

月日の流れはあっという間で、江戸は初午も過ぎて梅が人々の目を愉しませる季節になっていた。

約束の日の朝、つむぎは黎明を迎える前に書き置きを残し、少しばかり粧し込んで診療所をそっと出た。山城守が指定した正午から逆算すれば、かなり早い出立だ。

「誰よりも長い時を一緒に過ごして来た、俺の勘をなめるなよ」

「小川先生すみません。今日一日だけ、診療所を頼みます」

利通、平助、毅の三人はつむぎの行動を先読みし、事前に頼んでいた小川笙船に診療所をお願いすると、つむぎの後を追った。つむぎは道すがら幾つかの神社に足を向け、暫し手を合わせながら高明院を目指した。

「こうしてみると、姐御もやっぱり女子なんだよな。ずっと俺達を引っ張って来て、ちょっと男勝りな姿しか見てこなかったから」

「そうですね」

「報われると良いな」

毅の言葉に、離れた場所から様子を窺う利通と平助は、神妙な顔でつむぎを見つめた。

「よし。俺達は裏階段から離れの庭に向かおう。和尚様に見付かったら、やめなさいと叱られるだろうし」

三人は静かにその場を離れると、高明院の裏階段へ向かった。

裏階段は脱出経路にだけ使用しているのか、朽ちた土塀を乗り越えた場所から始まっていた。繁みに覆われ、足場も悪い。利通と平助は、何度も足を滑らせた。

「一年に一度ぐらいは手入れするんだが、公にはしていない場所だから悪いな」

言いながら毅は、すいすいと上って行く。毅もまた、つむぎの守り役だったのだなと、利通は痛感した。六年前に隼人から託されたつむぎを、この階段を必死に連れ降りた毅の姿を思い浮かべた。

 

「ここだここ」

ガサゴソと草木を掻き分けて、毅は利通と平助を離れの庭に連れて来た。

「ここが死角になって」

最後の草木を掻き分けて、毅は唖然となった。

「和尚様、信敬」

そこには既に、和尚と信敬が身を潜めていた。

「山城守殿から話を聞いて、どうにも心配でな」

「何だ。俺は和尚様に見付かったら叱られると思って、裏階段を必死に上って来たっていうのに」

「それは悪い事をした」

そう言いながらも悪びれる様子はなく、和尚は笑った。

「二人は未だですか」

「未だです」

利通の問いに信敬が応えた。

その時真横から勢いよく、小さな刺を持つ木の実のようなものが、何粒も次々に飛んで来た。

「何だ」

「痛たたたっ!」

皆して叫び、防御しながら飛んでくる方角を見やると、三間程先の木々の合間から、こちらをじっと見据える飛礫の姿があった。

「これ、撒菱だ」

足許に落ちている刺のあるものを拾って、平助が叫んだ。

「追い出す気か」

毅が幾つか拾い上げて投げ返そうとすると、飛礫は無言で腰にぶら下げた巾着に左手を入れた。

「やべぇ、あいつ未だ何か持ってるぞ。皆、撤収だ」

落ちている撒菱を避けながら、毅は皆の背を押してその場を立ち去った。

その姿を見送り辺りの様子を窺うと、飛礫もその場から姿を消した。

ややあって、先につむぎが離れに入った。つむぎは部屋の中央に立つと、懐かしそうに辺りを見回した。変わらぬ景色。けれど、もう多くの友の笑い声は聞こえてはこない。つむぎは寂しそうに微笑むと、その場に座して目を伏せた。

爽やかな風がつむぎを包み込み、脳裏にくらとして過ごした当時の光景が蘇った。

 

「お姉さん、熊ちゃんが子猫を見つけたの。小さくてとても可愛いの。ねぇ、見に来て」

菊が部屋に居たくらの手を引いた。

「今、行くわ。桂さんも行きましょう」

「はい、姫」

頷いて立ち上がる隼人に、くらは目を吊り上げた。

「その姫という呼び方は止めてと言っているでしょう。私の名はくら。くらと呼んでくれないと、もう返事をしませんよ」

「くら……姫」

どうしても呼び捨てが出来ずに、姫と小声で呟いてしまう隼人につむぎは口を尖らせると、菊の手を取って庭から飛び出して行った。

「あっ、くら……姫、お待ち下さい」

隼人が慌てて後を追って飛び出して行く。

 

「姐御、熊達と海で鯛を釣ったぞ」

「あら、すごい。でも、捌けるの」

得意げに大きな真鯛を掲げる毅に、くらが訊ねた。直ぐに毅は首を振り、熊や他の子供達も首を振った。

「私が捌きましょう」

「さっすが桂さん」

立ち上がる隼人に、皆が喝采の声を上げた。

 

懐かしそうに微笑むつむぎが、風が止んでふと真顔になると目を開けた。その正面の庭に、いつやって来たのだろうか、隼人が佇んで居た。小さく頭を下げる隼人を認めて目を見開いたつむぎは、瞬間にくらとして立ち上がるや走り出し、裸足で庭に飛び降りると隼人に抱き付いた。

「隼人さん。生きてる。温かい。良かった」

突然の事に戸惑いを隠せない隼人であったが、つむぎは隼人の温もりを肌に感じて涙を溢れさせた。

「私は、あなたを傷付けたのでしょうか」

隼人は姫とは呼ばなかった。その事に気付いて、つむぎは顔を上げて隼人の顔を覗き込んだ。

「今、姫と呼ばなかった」

嬉しそうに微笑むつむぎに、隼人はまた戸惑った。

「今は、皆からつむぎ先生と呼ばれているようですし、私はどうお呼びすれば良いのかと」

「えっ、ふふふ。変わらないのね、その堅物さは」

つむぎが笑いながら部屋の方へ戻り始めると、隼人も後に続いた。そしてつむぎが先程の場所に座すと、隼人はその正面に座した。

「私の近況は、話さなくても分かっているのよね」

「はい」

隼人は静かに応えた。

「隼人さんは、どうしていたの」

「あの後、不覚にも飛礫に助けられまして、この近くにある城との繋ぎの場に逃れました。右眼を失い、お役目を失う事は必定でした」

「その眼は、今も痛む」

「いえ」

瞳を揺らすつむぎに、短く否定した。

「あなたを護る、それはここで過ごした皆との約束でもありました」

「約束」

反芻するつむぎに隼人は頷いた。

「ただ、任を解かれた私がお側にいては、あなたはまた的となる。それだけは避けねばならず、影に徹するべく私は死したと、そうあなたに告げて貰ったのです」

「あなたが生きてると分かった時、多分そうだと思った。闘っている時のあなたの姿は、とても怖かったけれど、私と話している時のあなたは、忍びとは思えないほど優しかったから」

また溢れ出しそうな涙を堪えようと、つむぎはふいっと上に目を向けた。

「あなたが日本橋に診療所を開いてからは、長屋の住人として配下を潜ませ、冬の間は江戸に止まってこの近くの隠れ家から指示を送り、春先からは飛礫と交代で紀伊の我らが暮らす山里に戻り、薬草を摘んでは診療所へ届けておりました」

「そのお陰で、多くの人の命を紡いでこられました。でも、それはもう止めて下さい」

つむぎは、真っ直ぐに隼人を見つめた。

「今、あなたの目の前に居る私は、つむぎと名乗るただの女医者です。身分の垣根なんてない、ただの一人の女です。私と、一緒に暮らせませんか。私は、ずっとあなたを慕っていました」

隼人の左眼が揺れた。

「私は一番の年上として、ずっと気を張って皆の中で過ごして来ました。隼人さんは確かにお役目としてだったかもしれないけれど、私が素直になれる、唯一無二の人なんです。だから」

「それは許されません」

隼人は噛み砕くように、はっきりと告げた。

「私は、これからも姫になるつもりはありません」

「そうではなく」

身を乗り出すつむぎを制するように、強い言葉を投げた。

「私は、あなたが大切に思っていた菊を、あなたの身代わりとして飛礫に斬らせてしまいました」

隼人の顔が歪んだ。

「あなたを慕って仕草を真似ていた菊の姿を見て私は、万が一の有事の時には、身代わりになってその命を賭す覚悟をするようにと、指示を出していました。あの日、飛礫らが離れに向かいそうなのを見て、私は傍に居た菊に『姫、お逃げ下さい』と叫んで、その背を押して走らせたのです」

 

「姫、お逃げ下さい」

隼人に背を押されて咄嗟に走り出す菊に気付いて、飛礫が横から向かって行く。

迫り来る足音に菊は振り返り、恐怖の悲鳴を上げる間もなく、飛礫に斬り伏せられて倒れた。

 

「私は飛礫が菊の絶命を確認する刹那を狙って飛礫の右腕の腱を斬り、返す刀で止めを刺そうとしたその時、騒ぎを聞き付けて飛び出して来たあなたに、止められたのです」

つむぎは深く息を吐いた。

「飛礫を救ったあなたを見て、瞬時に後悔しました。あなたは誰よりも、人が傷付く事を嫌がっておられましたから。それが己が為なら尚更。ここに来て間もない頃、あなたの為に柿の実を取ろうとして木から落ち、丸一日意識がなかった子の前で、あなたは意識が戻るまでずっと、私の袖を掴んで震えておられた」

つむぎは小さく頷いた。

「あなたの皆に対する想いは分かっていた筈なのに、私は役目遂行を優先して動いておりました。ですから、あなたの心を踏みにじってしまった私には」

「あの子ね、初めて刺客に狙われた後で私に言ったのよ。ずっと今までお姉さんに護られて生きて来たから、今度は私が盾になって護ってみせるって。もちろん止めて頂戴って言ったけど、あの子は笑っていた。一つだけ確認させて。あなたが叫んで背を押したから、菊は走り出したの。それとも、菊が走り出したから、あなたが慌てて叫んだの」

じっと見据えるつむぎに、ややあって「前者です」と隼人は応えた。

つむぎは黙ったまま、視線を逸らさなかった。

「たとえ後者だとしても、私は止める事をしなかった。菊を死なせた事に変わりはありません」

「それを言うなら、私は盗賊時代にも何人もの仲間達を見殺しにして来たわ。力がなくて助けられなかった。この件だってそうよ」

つむぎは、己が手を広げて見つめた。

「私は影として、世間の裏を見て来ています。いつ何処で狙われてもおかしくない身の上です。そしてあなたも、名を変えたとて徳川の姫という出生は変えられません。一緒に過ごせば、また命を狙われるやもしれません」

「やも、でしょう。紀伊は兄上のお膝元。堂々と刺客が乗り込んでくるものかしら」

「紀伊へ来られるおつもりだったのですか。診療所はどうされるのです」

「信頼出来る人に、託すつもりでいるわ」

つむぎは迷いなく応え、隼人は唸った。暫く悩み、答えを出せずに立ち上がった。

「考える時間を下さい」

隼人は深く頭を下げると、庭から出て行った。その姿を黙って見送り、つむぎは嘆息すると目を伏せた。

 

「くら姉が、こちらに来ます」

渡り廊下で離れの方角を見つめていた信敬が、そう叫んで和尚の部屋に走り込んで来た。

「ここへ来るのか。くら先生、たすく先生、奥の部屋だ」

慌てた毅に急き立てられて、利通と平助は慌てて奥の部屋へ毅と共に入ると、襖戸を閉めて息を殺した。

「和尚様、入っても宜しいでしょうか」

その時つむぎの声がして、和尚は信敬を座らせると一つ咳払いをして、「入られよ」と言った。

すらり障子戸が開いて、つむぎは顔を覗かせた。

「逢えたのか」

「はい。考える時間が欲しいと言われました」

「そうか」

「待つのは慣れていますから」

つむぎはにこりと笑顔を見せた。

「診療所が心配なので、今日はこれで戻ります。奥に隠れてる三人も帰るわよ」

凄みを利かせたつむぎのその一声に、奥の三人は「ひっ」と声を上げて、身を震わせた。

 

庭を抜けて裏階段へ向かっている隼人の前に、すっと飛礫が立ちはだかる。

「お前……」

「邪魔者が潜んでいたから、排除してやっただけだ」

飛礫の脇をすり抜けようとする隼人を、させまいと飛礫が尚も立ちはだかる。

「あの人は、俺の命を紡いでくれた。お前、いつまで忍びのつもりでいるんだ」

「何が言いたい」

「その眼、この腕。互いに一線で働けると思うか」

隼人は応えずに、ただ飛礫を睨みつけた。

「お前は御公儀から、斥けと言われたのだろう。あの人も、ずっと姫なんて身分は要らないと言っている。慕われているのに、何で影に徹しているんだ」

「お前に、とやかく言われる筋合いはない」

「待てよ」

飛礫が声を荒らげる。

「俺は、金で誰にでも転ぶ流れ忍び。だがお前は、公儀御庭番衆。使命の重視は分かる。しかしその任を解かれた時、何故土下座してまであの人の影に徹したいと言ったんだ。使命への意地か、それともただ側に居たかったのか。どっちだ」

飛礫は左拳で、隼人の胸を叩いた。

「追い掛ける」

呟くと隼人は、一気に裏階段を駆け降りて行った。

「全く世話の焼ける野郎だ」

その姿を見下ろしながら、飛礫はやれやれと息を吐いた。

 

「小川先生一人ですって」

毅の言葉に眉を吊り上げたつむぎは、急ぎ足で診療所へ戻ろうとしていた。

後に続く三人は、気まずさから何かつむぎに話し掛けろと、互いに小突きな合いながら、芝口付近まで来てしまった。

丁度蕎麦屋を見付け、取り敢えず腹ごしらえしてから戻らないかと、毅が口火を切った。

「そんな悠長なことはやっていられないわ」

「でもよ姐御、腹ぺこじゃねぇか。診療所を発ってから、何も食べてねぇだろ」

指摘された途端にお腹が鳴り、つむぎは眉を顰めた。

「座れるか見て来ます」

真っ先に平助が場を離れ、

「あっ、小川先生に手土産も良いですね」

ポンと手を打って、利通に毅までもが蕎麦屋の暖簾を潜って行った。

つむぎがやれやれと嘆息し、ふと振り返る先に走り来る隼人の姿が見えた。

「隼人さん」

目を凝らして驚くつむぎの前に、隼人が走り寄った。

「く、くら、いやつむぎ……」

「先生、席空いています」

「お土産も作って貰えるそうです」

隼人がつむぎにどう呼び掛ければ良いかとまごついているところに、平助と利通が蕎麦屋から出て来て、「旨そうだぜ姐御」と、毅が続いた。

そして隼人の姿に気付き、気まずい空気が流れた。隼人は明らかに、君達も居たのかと顔を引きつらせている。

「隼人さんもお蕎麦食べますか」

にこり笑って、つむぎが場の硬直を解いた。

「いえ。一つあなたに伝えに来ただけですから」

隼人は真顔になって、つむぎを見つめた。

「十日後、私は紀伊に戻ります。もう、こちらには戻らぬつもりです」

つむぎの瞳が揺れた。

「紀伊のとある山里に、我々のような忍び達が住まう場所があり、役目を総て返上して暮らしていく所存です」

「そう……ですか」

つむぎは視線を落とした。

「一緒に、来ますか」

「……えっ」

耳を疑って、つむぎは隼人に視線を戻した。

「一緒に来るのなら、あなたも何もかも捨てて来て下さい」

隼人が微笑み、つむぎは目を見開いた。

「十日後の辰の刻に、先日の船で出立します。甲板でお待ちしております」

告げて深く頭を下げると、隼人は来た道を走り去って行った。

つむぎは遠ざかる隼人の姿を、ただ目を丸くして見つめるばかりであった。

「姐御」

毅が声を掛けると、ややあってつむぎが表情なく振り返った。

「ねぇ毅。今、隼人さん、一緒に来ないかって言った?」

毅が大きく頷いてみせる。

途端につむぎは顔を赤く染めると、その場にすとんとへたり込んだ。

「十日しかないんだよな。急を要するじゃねぇか。蕎麦なんか喰ってる暇はねぇ。急いで診療所に戻って、対策練るぞ。姐御も立ってくれ」

毅は慌てると、つむぎの手を引いた。

 

それから四刻半ほどで診療所に戻って来たつむぎ等は、戸を開いて驚いた。笙船の他に、術着を纏った若い男達が数人、せかせかと動き回っていた。

「報告が遅れて申し訳なかったが、あれから直ぐに公方様から直々に呼ばれまして、施薬院は本格的に小石川の辺りに造られる事に決まりました。それでちょっと、使えそうな若者を鍛えておこうと思いましてな」

修業の一環で手伝わせたと、つむぎに言った。

「そう。小川先生に鍛えられれば、直ぐに腕を上げるわね。頼もしいわ」

「そうあってくれれば良いが。お前達、こちらの先生方が戻られたから、今日はこれまでにしよう。診察録はくら先生に、処方した薬の手控えはたすく先生に渡すように」

笙船は利通と平助を指し示しながら、言った。

「小川先生、悪いんだけど皆さんと少し残って頂けるかしら。お話ししたい事があります」

「はい、構いませんが」

笙船は頷いた。

診療所を閉め、笙船等を前にして、つむぎは隼人との経緯を話した。

「では、江戸を離れて紀伊でお暮らしになられると」

「えぇ」

「それはめでたい事ですが、こちらの診療所は、くら先生とたすく先生にお任せするのですか」

「その事で、ご相談があるんです」

つむぎは、笙船を見つめた。

「施薬院が出来るまでの間は、ここで私の後を引き継いでは貰えないでしょうか」

「それは構いませんが」

言って、利通と平助を見た。

「自分は未だ、上に立つ程の腕はありません」

「私は、つむぎ先生がこちらを去られるのであれば、暫くは兄の力になろうと思います」

平助は首を振り、利通も固辞した。

「ですが、私は神田に弟が居りますから、もし小川先生が入って下さるならここへ残りたいと思います」

「たすく先生なら処方の腕は勿論ですが、施術の方も腕を上げています。患者の事もよく分かっていますし、先生にお預けしても構わないでしょうか」

「心得た。毅くんはどうするんだ」

「今まで、ずっと姐御と併走して暮らして来たからなぁ。離れるって実感が湧かなくて。でも、紀伊に付いて行って、隼人さんとの仲を邪魔するのも何だし。からくりの勉強でもしに、長崎にでも行ってみようかと思う。あぁ、人形丁の施術室は使ってくれていいぜ。発つまでに、扱い方は伝授するから」

そう言って、にっと笑った。

「十日間は、今まで通りに働くから。くら先生とたすく先生は、存分に吸収して頂戴。毅も、それまでは力を貸して頂戴ね」

「承知した」

こうして蔵紡診療所は、慌ただしく転機を迎える事となった。

 

まずは訪れる患者達に不安を与えないように、笙船との引き継ぎをしっかりした。

「先生には本当にお世話になりました」

伊左次とまさが、目鼻立ちがはっきりしてきた娘の『たえ』を抱いて挨拶に来た。

「もう間もなく、歩き出すわね」

「はい。毎日が楽しみです」

二人は頷いて笑顔を見せた。

それからも、つむぎの診察を受けた者達が挨拶に訪れ、つむぎの幸せを口々に願った。

「あっという間に、明日旅立ちですね」

診療所を閉めて、利通が言った。

明日からはここに、笙船や施薬院で働く予定の者達が入り、平助だけが残る。

部屋の片隅には、つむぎが持って出る手持箱と小さな風呂敷包みが置かれていた。

「姐御、本当に荷物はこれだけで良いのか」

「つむぎとして働いて来た手持箱と術着。後は数日の着替えだけで大丈夫よ」

「くら先生は」

「私は、ここへは着のみ着のままで連れて来られたから、出る時も着のみ着のままで」

「暫くは高明院に居るんだよな。何か忘れ物があったら届けてやるよ」

「ありがとう」

平助の言葉に、利通は礼を述べた。

つむぎはぐるりと診療所を見渡した。

「たすく先生とは三年。くら先生とは未だ一年も経っていないのね」

「でも、ここで学んだ事は山ほどあります。日本橋で声を掛けられた時は正直、お節介も大概にして欲しいと思いましたが、今は感謝しかありません」

「私もです。互いに先生に声を掛けて貰わなければ、今頃どこで何をしていたかな」

「そうだな。無精髭生やして、場末でどん底生活を送っていたかもしれないな」

平助の言葉に利通はしみじみと語り、それから夜遅くまで、四人は旅立ちの祝酒を酌み交わし、それぞれ別れを惜しんだ。

 

翌朝。夜明けと共にやって来た笙船が、皆で品川まで送って来いと言うので、揃って身支度を始めた。つむぎは時間まで診療所のあちらこちらを歩き回り、診察室の柱や百味?笥に触れて想い出を懐かしんだ。

起きて来た長屋の者達にも別れを告げ、蔵紡診療所の看板を見つめたつむぎは、そっと手を触れて深く頭を下げた。

「お幸せに、お達者で」

「たすく先生を、これからもよろしくお願いします」

笙船に別れを告げて、つむぎ等は長屋から表通りに出た。

「越前守様や山城守様は、顔を出さなかったな」

「私が断ったのよ。医者のつむぎとして、紀伊に向かいますって」

毅の言葉に応えて、つむぎは城の方角を向くと頭を下げた。

「んっ?」

真っ先に異変に気付いたのは、利通だった。

「どうした、くら先生」

「神田の方の空が、やけに赤くないか」

「えっ、神田」

平助が一歩歩み出て、神田の方角の空を見上げたその時、ジャーンジャーンと火消しの出動を促す半鐘が聞こえた。

「火事だ」

平助が叫んだその時、鐘の音は連打に変わった。

「近いですね」

「おいおい、明け方でこの空の赤さって大火事じゃねぇか。風向きからして、こっちに来ないだろうな」

利通と毅は息を呑んだ。

「神田鍛冶町辺りで、不審火だそうだ」

「怪我人が出てるぞ」

「風向き次第じゃ、こっちにも被害が及ぶぞ。逃げる準備しておけ」

走り来る者達が、口々に叫ぶ。

平助は踵を返すと診療所に走り戻り、術着を羽織り手持箱を抱えて笙船と共に飛び出して来た。

「つむぎ先生、鎌倉河岸の側に弟が継いだ店があります。それに、あの辺には見知った人が大勢います。私は、手助けに向かいます。見送り出来ずにすみません。どうぞお幸せに」

頭を下げるや、一目散に走り出した。

「たすく先生」

利通は叫び、空を見上げて歯噛みすると、「私も向かいます」と、診療所に走り戻って術着と手持箱を抱えて出て来た。

「毅さん、つむぎ先生をお願いします」

「待ってくら先生、私も行くわ」

つむぎは風呂敷包みを足元に置くと、急いで結び目をほどいて中から術着を取り出した。

「姐御、待て。隼人さんが待っているんだぞ」

「そうですよ。先生は、品川へ向かって下さい。神田へは、小川先生も向かってくれました。私も後を追いますから、こちらは任せて下さい」

毅と利通は、つむぎを押し留めようとした。

「火事が広がれば、その命が危ぶまれる人も出るわ。医者の本分は何。ここで背を向けて立ち去る事。それとも、しっかりと命を紡ぐ事」

つむぎに真剣な眼差しを向けられて、利通も毅も言葉を失った。

「日本橋までの延焼は、火消しの方達が必死に食い止めてくれるでしょう。私達は、自分達の本分をきっちりとやる。良いわね」

「承知。俺は、人形丁の施術室の準備をしておく。大勢運ばれて来ない事を祈りながらな」

頷いて、毅が人形丁方向に走り出した。

「行くわよ、くら先生」

着物が入った風呂敷包みをその場に置き去りにしてつむぎは走り出し、利通も後を追った。

その様子を見つめながら、風呂敷包みを拾い上げる者がいた。飛礫だ。

「こっそりと様子窺いに来てみれば、大火事か。助けに走るのはあの人らしいが、定刻に品川は無理だな」

飛礫は眉を顰めた。

 

品川の港に停泊する船上で、隼人は幾度となく溜め息を吐いていた。もう間もなく約束の刻限だというのに、つむぎは姿を現さない。いらっしゃらないおつもりなのだろうかと、日本橋の方角に目を向けて、思わず甲板の縁まで走って身を乗り出した。

「空が赤い」

呟き、瞬時に異変を察した。

「あの人は来ないぞ」

その時、つむぎの風呂敷包みを抱えた飛礫が船上へ駆け上がって来た。

「飛礫」

「というか、来れない」

「お前、日本橋に行っていたのか。何があった、火事か」

「あぁ。火元は神田鍛冶町。周囲を巻き込み始めているが、町火消しが懸命に食い止めて、日本橋や城の方は大丈夫だ」

「あの人は、つむぎさんはどうした」

隼人は無意識に、つむぎの名を口にした。

「この風呂敷から術着を取り出して、現場の方に駆けて行った。仲間達がここへ向かえと説得していたようだが、何の躊躇もなくな」

「そうか」

隼人は微笑んで、赤い空に視線を向けた。

「私は船を降りる。ここで駆け付けねば、男が廃るからな」

役目の為ではないというように決心の眼差しを飛礫に向けると、下船すべく走り出した。

飛礫も踵を返して走り出す。

船を降り、街道筋に出ようと走り来た隼人は、目前に大名駕籠が止まっているのに気付いて、追って来た飛礫と共に足を止めた。すっと開く戸から覗く人影に、隼人も飛礫も目を見張った。

 

鎮火の半鐘が鳴ったのは、未の刻を回った頃で、それから怪我人達の治療は一刻余りも要した。

つむぎ等が日本橋本町に戻って来たのは、陽が傾き始めた頃であった。

「あら、火事場泥棒かしら。着物を包んだ風呂敷が見当たらないわね」

つむぎは長屋と表通りを行ったり来たりしながら呟いた。

「まぁ、お金がない訳じゃないから着物は道中買うとして、これから隼人さんを追い掛けて紀伊へ向かうわ」

朗らかに宣言するつむぎに、利通等は驚いた。

「歩いてですか」

「そうね。船には乗り遅れちゃったし」

「ちょっと待てよ姐御。紀伊の何処に居るのか、具体的な場所を教えて貰ってないだろう」

「えぇ。でも、行けば何とかなるでしょう」

「待て待て待て」

歩き出そうとするつむぎを、毅は押さえた。

「隼人さんは忍びだぞ。聞いて容易く分かる場所に居る訳がねぇだろ」

「それでも捜すわ。さすがに、七年も掛からないでしょう」

つむぎは諦めていない。

「公方様に頼んで、船を出して貰ってはどうですか」

利通の言葉に、つむぎは大きく首を振った。

「兄に頼ったら、隼人さんとの約束を破る事になるわ」

つむぎの頑ななまでの決意に、毅は大きく嘆息した。

「分かった。俺も同行する。隼人さんに託すまでは、俺が付いて行く。ただ、今日は疲れたから明日仕切り直そう」

「明日は明日で、何が起こるか分からないでしょう。出立するなら今よ。毅は毅の道を行きなさい、心配無用」

「つ、つむぎ先生。女子は、関所越えで引っ掛かります。特に箱根は厳しいですよ、手形がないと」

「手形ですって、面倒くさいわね。船は良くて、陸路は駄目って何」

「いや、船はきっと隼人さんが用意していたんじゃねぇか」

強引に歩き出そうとするつむぎと、無茶だと引き留める利通等が通りで揉めていると、越前守と山城守が先導した大名駕籠が、日本橋の方からこちらに向かって来るのが見えた。

目を見張るつむぎ等の方に駕籠は進んで来る。

「公方様のお出ましである。控えおろう」

沿道の者達に、山城守が野太い声を上げた。

途端、行き交う人々は沿道の両端に下がるや、その場に平伏した。その様子を確認し、駕籠を振り返る山城守は、担ぎ手にその場に留め置くよう指示すると、履き物を戸口の前に置いた。

「着きましてございます」

山城守が畏って告げると、駕籠の戸が開き、堂々たる体躯をした公方吉宗が降り立った。

思わず兄上と叫びそうなつむぎに小さく首を振る吉宗は、

「その方が、つむぎというこの町の医者か」

と、初対面である事を強調するかのように尋ねた。

「はい」

頷くつむぎを見て歩み来る吉宗に、利通は慌てて跪いて頭を下げ、毅等もそれに倣って頭を下げた。

「そなた、今朝ほどの神田で発生した火事に駆け付け、多くの者を助けたとこの越前守から聞いた」

「医者として当然の振る舞いにございます」

つむぎは凛とした声で、吉宗を真っ直ぐに見つめて即答した。

「しかしそなた、本日品川より船で、江戸を立ち去る予定だったそうではないか」

「はい。公方様の故郷たる紀伊へ」

「間に合わなかったであろう」

「はい。ですが、これから東海道を上って行こうと思っておりました」

「関所手形は持っておるのか」

「いいえ。皆にも言われましたが、そんなに必要なものですか」

真顔で訊ねられ、吉宗は高らかに笑った。

「これは掟であるからな。守らねば、私が困る事になる」

一頻り笑うと、吉宗は居住まいを正した。

「江戸を守ったが為に、出立出来なかったのであれば、私はその謝礼として無事に紀伊へ辿り着くべく、二人の忍びにそなたを送らせよう」

駕籠の方へ首だけ向けると、駕籠の脇で編笠を目深に被って控えていた二人が、すっくと立ち上がって顔を上げた。

「隼人さん、それに飛礫も」

驚愕するつむぎに、隼人は微笑んだ。

「明日、改めて品川に船を用意致す故、この者達に紀伊の地までそなたを護らせる」

「ありがとうございます」

つむぎは深く頭を下げた。

 

その後、つむぎは翌朝の船を待つために高明院へやって来た。隼人と飛礫は勿論、見送りの利通等や、何故か吉宗や越前守に山城守までもが集まり、この場でつむぎと隼人の仮祝言だ等と騒ぎ始め、当の二人に強く固辞された。

夜半まで騒ぎが続き、平助が酔い潰れたのを潮に、一人、二人と部屋を出て行った。つむぎは既に隼人が部屋を出た事に気付いて、平助を信敬に託すと部屋を出た。

隼人の行き先は分かっていた。つむぎは迷う事なく、真っ直ぐにその場所へと向かった。離れとは反対の南に位置する、大きな欅の真下にこんもりとした塚がある。そこは、この場所で散った菊等の墓であった。日中は陽射しが良く、鳥たちの囀りが絶えず聞こえ、月夜の晩は、仄灯りを浴びるかのように照らされた。

そんな場所に隼人は、一人佇んで瞑目していた。

つむぎは静かに左隣にやって来ると、同じように目を閉じて頭を下げた。

「本当に良いのですか。日本橋はあなたにとって、大切な場所だったのでしょう」

「構いません」

つむぎは静かに応えた。

「江戸とは違い、深い山暮らしですよ」

「私は、そんな場所で育ったのですよ。直ぐに慣れます」

そんなつむぎの言葉に、隼人は微笑んだ。

「ここであなたと出会い、私は光の下の生活を知りました。その結果、皆を死なしてしまいました。私は本当に、あなたの手を取って良いのでしょうか」

塚を見つめ、それからつむぎに視線を向けた。

「生かされた私達の使命は、皆の為に幸せになる事。一緒に、日々命を紡いで行く事」

つむぎは笑顔で語り、隼人に右手を差し出した。その手を己が右手でぐっと引き寄せ、隼人はつむぎを抱き締めた。

「幸せに」

塚の方から、菊等の声が聞こえた気がした。

 

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