→第2回「夢さなか」を読む

*   *   *

新吉原は松代屋の格子女郎であった小鈴が、労咳で養生していた待乳山から抜け出し、大川の対岸に位置する寺島村の丘の上で服毒死してから十日が過ぎた。つむぎの調べに因り、毒は附子(トリカブト由来)であろうと推察された。製法及び匙加減次第で、疼痛の薬にもなれば即効性の毒にもなる。相当な知識がなければ扱えない代物である。

小鈴は編笠を被った武家の男に連れ出され、寺島村の亀之助を訪ねようとして、許嫁だと称される美和の姿を垣間見てしまう。身分の差を痛感でもしたのか、誰に何も言わず命を絶ってしまった。

その後亀之助は、形ばかりでもと松代屋に小鈴の身請け料を支払った。そして、有吉座の座元である勘助が引き留めるのも聞かずに役者の地位を捨て去ると、荼毘に付した小鈴の遺骨を抱いて故郷である大和へ向けて旅立って行った。

一方、毒を渡したとされる編笠の男の足取りは、なかなか掴めないでいた。唯一の手掛かりである丸に葛の花の家紋、それは利通の小倉家のものと一致する。更に、利通が新吉原の大門ですれ違った編笠の男は、兄である利政に格好がよく似ていた。久世藩医の父の後継として、薬には精通している。また、大岡越前守から聞かされた同様の事件は、久世藩と関わりのある土地で起きていた。利政が編笠の男なのだろうか。利通は、苦悶の日々を過ごした。

けれど、松代屋の小袖が贔屓にしている加賀屋清右ヱ門という男が、編笠の男に託されたという文を見た利通は、これは利政の筆跡ではないと断言した。その為、現状では編笠の男が誰であるのか、判断する事は出来なかった。

「小倉利政という其方の兄は、藩主三輪義剛の世継ぎである義直の侍医として、現在は京橋の中屋敷に居るようだ」

事の次第を聞いて調べあげた越前守が、そう診療所に伝えに来た。

「兄がこの江戸に」

「ただ、いつ頃から江戸入りしているのか、そこまでは未だ掴めてはいない」

そんな報告を受けて以来、利通はますます気鬱になっていった。診療中も何処かうわの空で、つむぎから診療部屋を追い出される始末だ。

そんな腑抜けた利通の姿に、平助は苛立ちを覚えていた。自分より後から診療所に来たというのに、腕は立ちつむぎの信頼も厚い。今に見返してやると、勝手に自身の宿敵と思い日々励んでいるというのに、利通は全く張り合いがない程に覇気を失っている。

治療を終えて様子を窺いに行くと、相変わらずうわの空で薬研を転がしていた。周囲に置いた皿の上の薬草等を、全く確認もせずに投じている。

「おい」

平助は驚いて声を掛けたが、利通の耳には届いていない。

「おい、しっかりしろよ」

前に回り込んで屈むと、そう叫んで利通の頬を挟み叩いた。

「痛っ……たすく先生」

大きく目を瞬いて、利通は驚いたように目前の平助を凝視した。

「それは何に効く薬だ」

平助に見据えられてはたと薬研に目を移し、利通は思わず絶句した。疼痛、利尿作用、分けて並べて置いた皿の上のものを総て薬研に投じていた。

「医者失格だぞ」

平助が苦言を呈する。利通は口元に手を当てて小さく頷きながら、「顔を洗って来る」と言って立ち上がった。

「なぁ。昼過ぎに毅さんと麹町十二丁目(傳通院近く)の小川先生が来るって言っていたから、一度京橋の久世藩中屋敷まで行ってみないか」

よろよろと歩き出す利通の背に話し掛ける。

「いつまでもくよくよ悩んでいたって埒が開かないだろう。自分で出向いて確かめた方が良いと思うぞ」

「それはそうだが、私は藩を追われた身だ」

「別に、堂々と訪ねろとは言っていない。ただ、近くで動向を探る事は出来るだろう。とにかく、生気のないお前を見ているのが嫌なんだよ」

平助は未だに利通をお前呼ばわりして、悪態を吐く。

「そうね、二人して今から行ってきなさい。私も辛気臭いのは大嫌いだから」

平助の声が聞こえたのか、奥からつむぎが顔を覗かせるや、利通にきっぱりと言い切った。

 

診療所から京橋までおよそ十四町(約一・五キロメートル)。四半時もかからずに辿り着く。こんな間近に兄が居るなど、利通は思いも寄らなかった。平助と共に久世藩中屋敷の間近までやっては来たものの、やはり足が竦む。手前の辻角で完全に足が止まってしまった。

「やはり、どんな理由であれ私が藩に近付くのはまずい。兄の事は越前守様が調べて下さっているし」

「それまで、ずっとうわの空で診療に当たる気か」

平助が言葉を遮って、険阻(けんそ)な顔を向けてくる。

「利通か?」

その時、背後で声がした。

「兄上……」

振り返り、利通は目を見開いた。目前に、風呂敷包みを抱えた兄の利政が立っていたのだ。

「この人がお前の?」

平助が振り返り小声で確認し、利通は小さく頷いてみせた。

「お前、江戸に居たのか。あれから便りもなく、ずっと心配していたのだぞ。元気そうで何よりだ」

利政は利通の前に歩み寄ると、懐かしそうに見つめて感嘆の声を上げた。そして直ぐにくんと鼻を鳴らして、不可思議な顔をした。

「薬草の匂いがするな」

「あぁ、今さっきまで薬研を転がしていて、そのまま出て来たものですから。私は今、日本橋の蔵紡診療所というところで医者をやっています。こちらは共に働くたすく先生です」

利通はそう言って平助を紹介し、平助は利政に頭を下げた。

「私は利通の兄の利政と申します。利通が世話になっております」

利政も、平助に会釈した。

「医者。そうか、また医者を始めたのか。それは何よりだ。お前は昔から才能があったからな」

心底喜んで顔を綻ばせる。そんな優しそうな利政の顔付きを見て、利通も平助も心の内の疑念が薄れ行くのを感じていた。そんな利通が、ふと胸元の家紋に目を止める。一連の事件で目撃された丸に葛の花ではない。

「兄上、その家紋」

「あぁ、亀甲南天だ」

利政は家紋に視線を向けた。

「実は今、私は義直様の侍医を任されるようになっている。それで、替紋として下賜されたものだ。小倉家の家紋の葛もこの南天も、薬になるだろう。これを身に着けた時、漸く父上の足元に並べたと思った」

「では、ずっとこちらではこの紋を?」

「正式な時以外はな」

屈託のない笑顔に、利通は胸を撫で下ろした。

「父上は、ご健在なのでしょうか」

「あぁ。参勤交代で殿に付いて神田の方の上屋敷におられる。義直様は、元来丈夫ではないからな、少し出立が遅れて、私は二十日ほど前にこの中屋敷にやって来た」

「では兄上は、上屋敷からのお戻りでしたか」

「いや。ここ十日ほどは品川の下屋敷に置いた荷物の出し入れの往復で、未だ未だ江戸には不慣れだ。お前が居る日本橋の診療所というのは、ここから近いのか」

「えぇ。橋を越えて直ぐの裏長屋です」

その言葉に、利政はピクリとなった。

「それはもしかして、つむぎ先生という女先生が居るところか」

「知っているのですか」

「いや。だが、藩内で評判になっていてな。型破りだが凄腕で、庶民は元より大名家でも一目置いているそうだが」

利通と平助は顔を見合わせ、大きく頷いた。

「私は長崎で最先端の医術を学んだつもりでおりましたが、つむぎ先生の元では毎日が驚きの連続です」

「そんなに凄いのか」

利政が、ゴクリと生唾を飲み込むのが分かった。

「なぁ、利通。今から私が、そのつむぎ先生を訪ねたらまずいか。今まで医術の手本といえば、父上と書物だけだからな。医者として、もっと視野を広げたい。だから頼む利通。つむぎ先生に会わせてくれ」

利通はどうしたものかと平助を垣間見た。平助は、構わないだろうというように頷いてみせる。

「それに、お前にまた明るさを取り戻させてくれた礼もしたいし、それから……」

一瞬言い淀んで、利政は周囲を見回した。

「藩から口止めをされているが、お前にあの事件の真相を話さないとならないと思っていたのだ」

「えっ」

真顔になって囁く利政に、利通は瞠目した。

「ここで少しだけ待っていてくれないか。荷物を置いたら、再び下屋敷に行くと告げて出て来る」

そう言って利通の肩に手を置くと、利政は足早に中屋敷へと向かって行った。

 

裏長屋を一歩一歩物珍しそうに眺めながら歩く利政に、利通は診療所の看板を指し示しながら戸を開けた。瞬間、

「毅、そっちの三人も傷口縫うから、からくりで患部麻痺させといて」

「承知。小川先生、こっちの人、右肩麻痺し始めたから縫い始めて構わないぜ」

喧騒に包まれた。

入口を上がって直ぐの所に、十数人の大怪我を負った男達が横たわっており、つむぎ達が声を掛け合いながら治療に当たっていた。

「こりゃあ大喧嘩でもあったのか。皆して血だらけじゃないか」

「つむぎ先生、指示して下さい」

平助と利通は、壁の術着を素早く羽織ると中に上がり込んでいった。

まるで戦場のような有様の中、見た事もないからくりを駆使し、機敏な施術を行っていくつむぎ等に、利政は目を見張った。

「待て利通、その人じゃない。その前の人の方が重傷だ。傷口よりも顔の色や呼吸を読むんだ」

利通が施術に当たろうとした患者に気付いて、利政が声を掛ける。

「くら先生のお兄様かしら。悪いんだけど人手が足りないの。治療を手伝って貰えると助かるわ」

つむぎは初対面の利政に顔を向けるや、そう言った。

利通に投げ掛けた言葉のみを聞いて瞬時に腕前を判断し、この場を任せる事を決めた。利政は、その洞察力に息を飲んだ。だが任されたからには、力を発揮するのみだ。

「承知しました。術着、お借り致します」

壁の術着を掴んで上がり込みながら羽織ると、利政は自分が重傷だと言った患者の前にやって来た。

「この人は私が診る」

利通は頷くと、施術道具一式を利政の目前に並べた。利政は、縫い針を手にして男の顔色を窺う。右肩から胸元にかけての裂傷。顔は土気色で目は虚ろだが、傷の痛みに呻く事はない。傷口の周囲を触診しても、その顔付きは変わらなかった。本当にからくりで痛みを取り除いたのかという驚きと共に、ならば存分に腕を振るうまでだという覚悟が決まった。

背中越しに、利通が縫合を始めたのが分かった。振り返らずとも、安定した滑らかな腕捌きである事が分かる。腕を上げたなと逞しく思う反面、兄とし、まだて父の跡を継ぐ藩医として負けられぬと縫い針の先端を傷口に置いた。木皮や獣皮での模擬は何度も行って来た。だが人皮は目前の患者が初めてである。それでも迷いは無かった。

 
「じゃあわしはこれで」

「ありがとう小川先生。助かったわ。いつもの通り、何の謝礼も出来ないんだけど」

「そんなもの必要ない。金や物を積まれてしか動かぬ者を、わしは医者とは呼ばぬ。わしもそのうち、つむぎ先生に負けぬ診療所を開くぞ。そっちの先生も、見事な腕だったぞ」

はははと笑いながら、笙船は診療所を後にした。

「すみません、挨拶もせぬままでおりました。利通の兄の小倉利政と申します」

利政は我に返り術着を脱ぐと、つむぎに一礼した。

「こちらこそ、いきなり手伝わせて御免なさい。でも、くら先生が常日頃から、お兄様を目標としている理由が分かったわ。見事でした」

「利通が、私を目標に、ですか」

利政は驚いたように利通を見た。

「あ、兄上。まずは寛いで下さい」

利通はばつが悪そうに辺りを見回し、座布団を見つけると利政に勧めた。

「おっと。その座布団は、さっき患者に抱かせていたものだから血が付いているかもしれねぇ。今、他のを持って来るから」

毅はそう断って一度奥に入り、別の座布団を人数分持って出て来た。

「どうぞ」

勧める座布団の隅に隣の部屋から延びる導線が付いている。

「隣の部屋に置いてあるからくりで、座布団に熱を送っています。これから寒くなって来ますから」

にこり微笑む毅に感嘆して、利政は座布団に正座した。足元からじわりと温かみが伝わる。

「私も腕を上げるべく様々な書物に目を通してきましたが、からくりには発想が及びませんでした。感服です」

「兄上、これは未だ序の口です。毅さんのからくり発明は、これだけに止まりません」

利通は利政に、人形丁の施術室や四輪車の話を聴かせた。利政は話に相槌を打ちながら、次第に目を輝かせていく。

「それは素晴らしい。我が藩にも欲しいものだ。利通、お前は本当に凄いところで腕を磨いているな」

利政は満面の笑みを浮かべた。

「でも、最近は少しばかり気落ちしていたんだぜ。お兄さん、あなたの事で」

言わないで欲しいとばかりに、利通が顔を顰める。

「十日ほど前、身請けを待ちながら労咳の養生をしていた新吉原の遊女がね、あるお武家様に手渡された毒薬を含んで自死した事件があって」

つむぎが構わずに話を継いだ。

「そのお武家様の家紋が丸に葛の花。私とくら先生で新吉原に診察に訪れた時、大門ですれ違った編笠を目深に被ったお武家様が、あなたに感じがよく似ていたそうなの。同様に、若者達が変死する事件が品川や京橋界隈に起きていて、お上が調べているところよ」

「なるほど。それでお前は、京橋の中屋敷に私が居るとでも聴いて、様子窺いにやって来た訳か」

利政は深く嘆息して、利通に眉根を寄せた。

「確かにその状況から察して私が疑われるのは分かるが、先程も言っただろう。私は未だ江戸に出て来て日も浅い。義直様付きだというのに、新吉原なぞに行く暇があるか。それに今は常に、この亀甲南天の替紋の方を使用している」

「はい。今は別人の仕業だと思っています。一瞬でも疑った事、申し訳ございませんでした。私の失態と同じような症例が、この江戸で起こっている事を知って、それが恐らくは自死で、私は動揺してしまっていたのです」

「その、お前の事件だが……皆様はご存知なのですか」

利政は真顔になると、一同を見回した。

「えぇ」

つむぎが代表で頷く。

「そうですか」

利政は静かに目を伏せ、暫しどうしたものかと考える仕草を見せ、やがて「皆さんにも聴いて頂いた方が良いでしょう」と呟いて目を見開いた。

「利通が夏風邪と診察したのに突然、晩に亡くなった多江さん。本当は服毒死でした」

「えっ」

利通が一瞬呆けた。

「検死の時に、疑わしい事がありました。多江さんの吐瀉物に触れたと思われる銀の簪(かんざし)が、変色していたのです」

「確か、砒素毒に反応するんですよね。となると、石見銀山……猫いらずですか」

平助が尋ねる。

「断定は適いませんでした」

「どういう事です兄上。多江さんが、服毒死だったなんて。誰もそんな話をしなかったじゃないですか。御家老も、父上でさえ私の失態だと。だから私は、藩を追われて」

利通は言葉を失い、膝の上で拳を握り締めた。

「私も、はっきりと事実を知ったのは、事件から十日後。お前は既に処分を下されて藩を出て、何処に居るのかも分からなかった」

「藩の方達は、捜し出して連れ戻そうとはしなかったの。失態ではなかったのでしょう」

利政はゆっくりと首を振り、大きく息を吐いた。

「多江さんは、身籠っていました。それも、我が藩の重役たる御嫡子との不義です」

「では、決まっていた縁談との板挟みでという事ですか」

利通が悲痛な声を上げる。

「激昂していたという父親が、私が訪れた時には寛容になっていた。早々に藩の手が廻っていたのだろう。それに気付かず、むざむざお前を藩から出してしまった事をずっと悔いていた。利通、すまなかった」

「頭を上げて下さい。兄上のせいでは」

「いや、謝らせてくれ」

利政は利通に向き合い、居住まいを正した。

「父上は藩から事実を告げられた時、止む無しと承諾した。代わりに、私は義直様付きの侍医を任ぜられる事になった。お前の犠牲で藩の失態に目を瞑り、内々に小倉家を守ったのだ。この事実は、これからも公にされる事はない。利通、私はお前を踏み台にした形でいる。心苦しくて、ずっと詫びたいと思っていたんだ」

利政は深く頭を下げた。

「いえ。事実が分かって、ほっと致しました」

利通は反対に、朗らかに応えた。

「私は、小倉家の次男坊。何れは一人で生計を立てる身の上でしたし。兄上が認められ、小倉家が安泰でいられたのであれば、それで十分です」

「しかし、お前の濡れ衣は」

「兄上が、私の潔白を知っている。それだけで、私はこの診療所でこれからも頑張っていけます」

利政の言葉を遮り、利通はにこやかに微笑んだ。

「ありがとう利通。お前は強いな」

頼もしく成長した利通に、利政は目を細めた。

「それにしても、何で多江さんは死ななくちゃならなかったのかな」

平助が憤慨する。

「多江さんの身体の変化に、もっと私が敏感でいれば」

「いや、検死では私も身籠っていた事に気付かなかった。それぐらい、初期の段階だったのだ。それに……」

利通に応えて、利政は一度言葉を切った。

「それに、覚悟を顔に出されなければ、こちらは何も分からない。心の内は計り知れない。医者としては怖いし、辛い事だ」

「何か他にもあったのかしら」

顔を歪める利政を見て、つむぎが訊いた。

「内々にと、殿のお身内を診た事があります。毎日のように癪を起こし、触診すると腹部にしこりを認めました。食も通らず痩せ細り、もう永くない事は直ぐに分かりました」

「末期ね。確かに、医者としては辛い事だわ」

「はい」

思い出したのか、利政は表情を曇らせて頷いた。

「それでも心の臓だけは強く、それで重苦の日々は続いて、その方に私は、もう楽にして欲しいと哀願されました」

「応じたのですか」

「出来る訳がないだろう」

驚いて尋ねる利通に、間髪を容れずに応えた。

「私の務めは、命を救う事だ。だが、その方は私の処方を、飲んだと偽って三日分を隠した。そして四日目、一度に飲み干して中毒で亡くなった。自死だ」

重い口調で告げる利政に、利通は言葉が出なかった。

「それだけではない。義直様にもよく言われている。義直様は蒲柳の質で、大病をして寝込まれる日も少なくはない。病床で、利政何故私を救ったのだと責められる」

「何故って、次期藩主になるからだろう」

余計な言葉を挟む毅を、つむぎが睨んだ。

「義直様は本来、ご世嗣ではないのです」

「えっ」

神妙な面持ちで応える利政の言葉に、驚いたのは利通だった。

「そうか、利通は知らなかったか。実は、弟君の義隆様の方が、生まれは十日ほど早い。だが、義直様の母君が徳川家に所縁のあるお方で、御正室。その事に配慮して、幕府への届け出は義直様ご世嗣となっているのだ」

「そうでしたか」

「けれど藩内は、文武両道で健康的な義隆様を推す者達の方が多い。だから、重圧の日々を送られていて、側にいる私は心苦しい」

「家督争いでお家騒動なんて話も聞くからなぁ」

毅は眉を顰めた。

「ならば兄上。正直に殿へ上申すべきです。藩を思うのであれば、家督は義隆様にお継がせになり、その補佐に義直様をと」

「そうね、その意見には私も賛成。まずは兄弟同士で話し合い、義隆様が世嗣を承諾するのであれば、藩主と対等に渡り合える人を味方につけて談判すれば良いと思うわ」

「けれど、最終的にそれを幕府がお認めになるかどうか」

利政は難しい顔をした。

「別に謀反を企てている訳ではないのでしょう。ならば、同じ人間なのだから通じるのではないでしょうか」

「私達医者もそうでしょう。患者を思い吐く言葉には魂を乗せているから、それが信頼に繋がって治療が進んでいく。それから私は、末期の患者さんに死なせてくれと頼まれても認めないわ。明日には特効薬が生まれるかも知れないし、世の中には生きたいと願っても適わない人は大勢いるから」

「そうだな。殺しに事故、間引きなんてのもある」

「コロリもだ」

毅が言って嘆息し、平助は膝の上で拳を握り締めた。

「痛みや苦しみは、確かに当人じゃないと分からない事だけど、私達医者はその苦痛を出来る限り緩和させる努力をして、天寿を全うさせたいわ。自死は、その人に関わった周囲の人の心に負を引き摺らせてしまうけれど、天寿全うならそれは軽減されるでしょ」

「確かに」

呟いて、利政は口を結んだ。

「つむぎ先生、息子が熱を出してしまって。診て貰っても良いですか」

外から女の声がする。

「あら、急患ね。今、開けるわ」

声を掛けると、平助が立ち上がり玄関先へと走って行く。

「ごめんなさい、診察があるので私は失礼します」

つむぎは利政に軽く頭を下げると、立ち上がった。

「私も、藩邸に戻らないとなりませんので、これで。これからも、利通の事を宜しくお願い申し上げます」

頭を下げる利政に、つむぎは笑顔を向けた。

「つむぎ先生すみません、表まで兄を見送って来ます」

利通も立ち上がり、利政と共に出て行った。

小さな男の子を抱いて入って来た若い母親に症状を尋ねながら、平助が奥の診察室へ入って行く。

その姿を見届けて、毅は立ち上がるや利政の敷いていた座布団を持ち上げた。

「あいつ、やっぱり事件に絡んでるな。新吉原の話の時や、悩みを打ち明けて、くら先生があっさりと打開策を話した辺りで、心が乱れた。発汗が電極を通じて、俺の座布団にビリッビリッてな」

「それであなた、声を上げる度に大袈裟な動きを見せていたのね」

つむぎが苦笑する。

「姐御も自分自身で試しただろう。俺が隼人さんの事を話した時に……」

「毅っ!」

つむぎの険しい視線が向き、毅は思わず首を窄めた。

「……未だ、くら先生には黙っていて」

言うやつむぎは、踵を返して診察室へと向かって行った。

「それじゃ利通、また」

表通りに出て来た利政は、利通に笑顔を向けた。

「やっぱり私はお前が羨ましい。良い人達に恵まれて、更に腕を上げる事だろう。私も藩を飛び出して、医術の視野を広げたいものだ」

「兄上」

「冗談だ。私は、私なりに努力して義直様を盛り立てていくよ。では」

「はい。父上にも宜しくお伝え下さい」

大きく頷いて、利政は去って行った。

 

中屋敷に戻った利政は、急ぎ足で義直の部屋へ向かった。

「義直様」

すらり障子戸を開けると、部屋には誰の姿も無かった。何処へと考え、嫌な予感を覚えて踵を返したその時、裏の方から編笠を被った義直がふらりと戻って来た。

「義直様、どちらへ」

「利政か」

編笠を取り、義直はただ微笑を湛えた。

「義直様、まさかまた」

「先日、女衒に売り飛ばされるかも知れないと悩んでいた町娘に薬を渡して来た。余程困っていたのか、その場で飲んで逝った」

義直は顔色一つ変えずに、淡々と応えた。

「もう、十分でしょう。無闇に、命を奪わないで下さい」

「そういう利政は、どれだけの遊女にあれを渡した」

冷たく言い放たれ、利政は言葉を継げなかった。

「利政は何処へ行っていた。品川の下屋敷、あれは嘘だろう」

「はい。弟の利通がこの江戸におりました」

その言葉に、義直がピクリと反応する。

「新吉原の小鈴。その主治医の女医者の元に今は身を寄せていて、この私を新吉原で見掛けたと、怪しんでいたようです」

「では、町方が動き出しているな」

そう言って義直は薄ら笑いを浮かべると、利政の横を過ぎて部屋に入って行こうとする。

「義直様」

「案ずるな利政。町方風情では私達には手が出せん。縦んば、御庭番が動き出す頃には、国許へ戻って本懐を遂げている事だろう」

「こんなやり方は、やはり間違っております。どうか、殿と義隆様と膝を交えて下さいませんか」

「無理な話だ」

義直は即答した。そして一度部屋へ入り、文机の上に置かれている二通の文を手にすると、利政に差し出した。それは、義直の父である藩主三輪義剛と、義隆の守り役の者からであった。義剛は、会って話す事はない。中屋敷にて、己がやるべき事を果たしておれば良いとだけ書かれており、義隆の守り役からは、後々の騒動に発展しないが為に、義直に与している者達は速やかに隠居せよ等と、話を持ちかけただけで騒動勃発が懸念される内容であった。

「誰も、藩の為だと考えようともせぬ。己が保身ばかりを述べ立てる。話し合うだけ無駄だ。私が黙って消えれば、目を見開いて考え出す事だろう」

そう言って、数度咽せた。

「義直様、失礼します」

顔色を窺うと少しばかり蒼白く、利政は慌てて脈を診た。

「少しばかり疲れた。暫し休む」

「微熱があるようです。今、薬を処方……」

「構うな、大事ない。一人にしてくれ」

利政の言葉を遮り、ぴしゃり言い捨てると、義直は利政を部屋の外へ押し出し、障子戸を閉めた。

利政は締め切られた障子を険しい表情で見つめながら、ぎゅっと拳を握り締めた。

 
「如何でしたか」

「間違いなく、附子毒ね」

毅の家の施術室に診療所の面々が集まり、大岡越前守を交えて検死が行われていた。施術台の上には、十三、四ぐらいの未だあどけなさが残る少女が、身体に菰を掛けられて寝かされている。

「三年橋の側で倒れていた。その近くに住むきわという少女で、父親の借金で身売りを余儀なくされている所だったらしい」

「ひでぇ父親だよ。娘が死んだっていうのに、呑み歩いていやがった。しかも、俺には未だ売れる娘が三人も居るとにやけたんだ。だから、その娘達は家から連れ出して来て俺が匿っている」

大岡越前守の言葉に、毅がむすっとしながら告げた。

「あの父親が改心しないのなら、帰せねぇ。然るべき所に預けて、保護して貰うが良いですよね」

「はい。こちらからもその旨を、父親に伝えておきます」

「それにしても」

利通がきわを振り返り、菰を捲って左手首を持ち上げた。無数の創傷が認められた。

「化膿するまで傷付けるなんて。どれだけ苦しんでいたのですか、この子は」

そう言って顔を歪めた。

「服毒だってそうです。即効性はあっても、喉が爛れていました。最期まで苦しんで、閉じられた目は生前に、楽しい事をどれだけ見て来たのでしょうか」

「誰にも相談出来なかったんですかね。この子にも、つむぎ先生のように手を差し伸べてくれる人が居れば」

きわの顔を見つめながら、平助がやるせなげに呟く。

「次に生まれ変わって来る時には、家族に恵まれると良いわね」

つむぎはきわに向かって手を合わせ、皆も後に続いた。

「ところで、これを確認して貰いたいのだが」

大岡越前守は懐から一枚の折り畳んだ半紙を取り出すと、利通に差し出した。

「今回も編笠の男が目撃されている。だが一連の男と違い、背丈が少しばかり低い。まだ元服して間もない者ではないかと推測される。そこに描かれている男に見憶えはないか」

「拝見します」

半紙を受け取り開いて、利通は目を見張った。

「義直様」

半紙に描かれていた似顔絵は、義直であった。

「やはり、久世藩世嗣の三輪義直で相違ないか」

「やはりとは、どういう事でしょうか。義直様は他の場所でも、目撃されているという事なのでしょうか」

「その通りだ」

大岡越前守は肯定した。

「新吉原では、先の編笠の男よりも目撃情報が多かった。素性を隠すべく編笠を被っていると思いきや、毒を手渡した後の様子を窺う為なのか、顔を上げてじっと相手を見つめる姿が報告されている」

「何て、たちが悪い野郎だ」

毅が吐き捨てるように言う。

「また、加賀屋清右ヱ門が預かったとされる文の事だが、それも義直の筆跡であろうと推察される」

「そうなると、兄は私に嘘を吐いていたという事ですか」

利通は救いを求めるようにつむぎ等に視線を向けた。

「兄は義直様の侍医です。知らぬ筈がない。それなのに……自分は事件に関わりないと、笑顔で私に話していたということですか」

利政の笑顔を思い返し、心が焼けるように熱くなっていた。

「その通りだよ」

「毅っ」

「ここまで判明しちまっているんだから、話したって構わないだろう」

つむぎの窘める言葉を、毅が一蹴する。

「くら先生の兄さんに、俺が勧めた座布団があっただろう。あれ、実は発汗で嘘を見破るからくり仕様だったんだ」

「奥で熱を送り出す一方で、毅の座布団とも連動していてね。人は嘘を吐いたりすると、動揺から汗をかくでしょう。その汗を感じると、電極を通じて毅が痺れる仕組みだったの」

「どうして、そんな事」

利通が非難する。

「悪いとは思ったさ。けれど、くら先生にとっては大切な家族だから、どうしても贔屓目に見て判断してしまう事だってあり得るだろう。現に、信じ込まされたんだからさ」

その言葉に、利通が何度も首を振る。

「兄は、とても優しい人です。思いやりがあり誰からも愛されて、医者として大成出来る人です。人を簡単に殺めるなど出来ない人です」

「それは分かるよ」

激昂する利通に、毅はやんわりと言った。

「末期患者に死を望まれたという話をした時、それは出来ないと即答した。あの気持ちは本当だ。それと、くら先生を踏み台にした格好で、世嗣の侍医になった事への負い目の気持ちもな」

「なら……」

「けれど、患者は苦しさから逃れようと処方された薬をため込んで自死してしまった。その姿を見てしまった優しい兄さんは、新たに苦しむ人を見た時に、その人が他の人に縋って互いに苦しみ足掻く前に自分がと、思い込んでしまったのかもな」

「それでも、どんな理由であれ、人の命を奪う事は許される事ではない」

話を黙って訊いていた大岡越前守が言明する。

「もしも、義直様や兄上が本当に関わっていたのなら、どうなるのですか」

「一藩の事になる故、私が裁きを下す事は出来ないが、事実ならば両名は切腹。お家は良くて改易。悪ければ取り潰しとなろう」

「私の家は、断絶ですか」

「そなたが戻れば、良いであろう。濡れ衣であったのだからな」

「私は、その濡れ衣を着せられて藩を追われた身です。今度は兄の身代わりで帰藩なんて、御免被ります」

利通は憤りを感じて、声を荒らげた。

「もう一度、兄と話して来ます」

「どうする気なの」

施術室から出て行こうとする利通を、つむぎが呼び止める。

「兄の本当の気持ちが知りたいのです。兄は未だ、医者としての信念を持っているのか否か」

「冷静になりなさい、くら先生」

ピシッと言って、つむぎは利通を見つめた。

「今、自分で言ったわよね。藩を追われた身だと。普通に出向いて、逢って貰えるのかしら。門前払いが関の山だと思うけど」

「つむぎ先生の言う通りだ。それに、私達が毒の話をした事で警戒が強まっただろう。迂闊な接触は避けると思う」

「けれど、じっとしている事なんて私には出来ません」

「それでも冷静になりなさい。医者が取り乱していたら、病む者の心は容易に見えなくなるわよ」

利通は、その言葉にはっとした。

「お兄様は診療所を訪れ、くら先生の成長ぶりを垣間見て、色々と思いを巡らす事になった筈よ。もしも、それで心が少しでも痛んだら、きっと良い方向に動こうとするわ」

「それでも、罪は消せません」

「そうね。だけど、ちゃんと治療して上げましょう。大岡様、この件一切に付いては、私がお預かりしても宜しいかしら」

つむぎは、何時にない凛とした顔を大岡越前守に向けた。

「当初から、そのつもりでお出ででしょう。くら様。ご老中戸田山城守様からのご伝言です。何処に誰の目があるか知れぬ。くれぐれも自重されたしと」

つむぎに対して急に低姿勢をとる大岡越前守に驚く利通と平助に、つむぎはただ含み笑いを浮かべた。

 

子の刻を廻ると風がぴたり止み、それに合わせるかのように虫達の音色も掻き消えて、夜のしじまが生まれた。そんな自室で一人、薄らと室内に影を落とす行灯の前で、利政が正面を見据えて座していた。その顔は、苦悶している。

「私は、何をしている」

呟いて、己が手を見つめた。医者として人を救うべく手である筈なのに、命を断つ毒を手渡していた。

義直と共に新吉原の大門を跨いで驚いた。化粧で隠しているとはいえ、大半の女達が病を抱えていた。店への借金という足枷で、身体に鞭を打って客を引いている。皮膚が爛れ始め激痛が走っても、着物で覆って笑顔を繕う。

医者であるから、死期が読めた。何れは人気のない暗い部屋に押し込まれ、苦しみ抜いてひっそり死んでいくのだろう。居た堪れなかった。死に行く運命ならば、少しでも安らかに旅立たせたいと思った。

それでも毒を含めば、喉が焼け爛れ、一瞬でも苦しむ。死に顔も、とても穏やかなものだとは言えない。

人は誰しも、いずれは死を迎える。それを天寿と呼ぶ。勝手に、苦しみが和らぐようにと、その死を早める事を勧めてはならない。医者としても、人としても、それは人助けではなく人殺しだ。

「今更遅い。遅いが、未だ止められる者達がいる」

利政は道具箱を引き寄せると、立ち上がり部屋を出て足早に裏門の方へと歩き出した。

「何処へ行く」

義直の部屋から声がして、利政はぎくりとして足を止めた。

「利政」

「私が手渡した分を回収してまいります。医者は、木戸を潜り抜けられますゆえ」

声を殺しながらも、はっきりと告げた。

「今更、義憤に駆られたと言うか」

「私は医者です。分別を弁えないとなりません」

「利政、今は動くな」

義直の言葉が聞こえたが、利政は黙礼すると足早に立ち去って行った。

 
「羅生門河岸に、編笠の男が現れただと」

会所で配下の者から報告を受けた四郎兵衛は、目を光らせた。

「お前はつむぎ先生の所へ知らせに走れ。文七は私と共に来い」

文七は、待乳山で小鈴失踪に巻き込まれた男である。「へい」と頷く文七と共に、四郎兵衛は走り出した。

利政は、羅生門河岸に足を踏み入れていた。お歯黒どぶ沿いの東河岸を差し、最下級の遊女達の切見世が居並んでいた。まるで鬼が現れたかのように、やって来た客の袖を引いて離さず店に引き込む事から、この名が付いたと言われている。利政も、あっと言う間に遊女達に囲まれた。

「あら、この間の先生」

「すまない。今日は先日皆に手渡した薬を、返して貰いに来た」

「それなら別の男先生が、回収して行きんしたよ」

一人の遊女が応え、側に居る遊女達が同調して頷いた。

「先生によく似て、男前でありんした」

利通だと確信した。

「あの薬の怖さ、真剣に説いてくれて」

「それでも、抵抗はしたのよ。たとえ一瞬の苦しみがあったとしても、この暮らしから抜け出す術があると思うだけで、気持ちが和らいでいたから」

「本当にすまない」

利政は遊女達に頭を下げた。

「代わりに、呼吸や気の持ちようで痛みや苦しみを和らげる方法を教える」

「それは、女先生が教えてくれんした」

「そうなのか」

利政は拍子抜けした。

「でも、そこな店のおていって子がぇ。未だ持ってありんす」

一人の遊女が、直ぐ横の切見世に視線を向けた。

「男先生が来んした時に、隠れていたから」

利政も切見世の方に視線を向け、おていに対する記憶を探った。一ヶ月程前に訪れた時には、黴毒が進んで身体のあちらこちらに硬いしこりが現れ始めていた。見目も悪くなり、客も寄り付かなくなって困窮し、栄養状態も悪かった。

「もう、本当に駄目だと思ったら飲みなさい」

そう言って薬を渡し、些少ながらも金を握らせた。

「今、客は付いているのか」

「そう言えば、今日は見掛けてないでありんす」

「ごめん」

嫌な予感がして、利政は切見世に歩み寄ると戸に手を掛けた。閂はされておらず、直ぐに横に戸が開いた。

中に入ると奥の柱の所で、おていがだらしなく寄り掛かっていて、今まさに薬を口に含もうとしていた。

「いけない」

利政は踏み込むと、おていの手から薬を奪い取ろうとした。

「嫌ぁぁっ」

どこにそんな力が残っているのだろうか。か細い身体で、激しく抵抗する。

「何だ、どうした」

やって来た四郎兵衛と文七は、おていの悲鳴を聞いて店に飛び込んだ。

「何をしている」

おていと揉み合いになっている利政を見て、文七が飛び掛かった。それを見ておていが外に逃げようと、足を縺れさせながらも薬を握り締めて走り出す。

「待てっ。私は薬を回収したいだけだ。離してくれ」

文七を振り払いおていを追い掛けようとするのを、今度は四郎兵衛が押し留めようとする。

「服毒死を止めたいだけです。離して下さい」

利政は無意識に四郎兵衛の腕の急所を押さえて捻り上げ、その場に転ばせた。

「うっ」

四郎兵衛が右膝を手で押さえた。その隙間から、じわりと血が溢れ流れる。朽ちて露出していた釘が、転んだ拍子に突き刺さったらしい。はっとする利政だったが、おていを見失う訳にはいかなかった。

「すまない。これできつく患部を駆血して後で必ず消毒して下さい」

利政は道具箱から取り出した晒しを手渡すと、文七に託して走り出した。

「おい、待てっ」

文七は追い掛けようとするものの、四郎兵衛の怪我を見て思い止まった。

 

おていは河岸の突き当たりにある九郎助稲荷の賽銭箱の脇に、力尽きて倒れ伏していた。

「大丈夫か、しっかり致せ」

抱き起こした利政は、おていの身体があまりにも痩せ衰えていて驚いた。顔から首筋にかけても皮膚が崩れ、赤黒く爛れていた。虫の息で、あと僅かで命の灯火が消えるだろう事は予測出来た。

「痛い……苦しい。わっちを……殺してくん……なまし」

途切れ途切れになりながら、訴える。

「薬……薬を」

「大丈夫だ。薬など無くとも、私の言う通りにすれば楽になる」

利政は足元に落ちている薬包紙を拾い上げ、袂に忍ばせるとおていの様子を窺った。

「ゆっくりと呼吸を繰り返して、私が背を摩るのに合わせて。そう、そうだ」

少しずつ呼吸を鎮めていくおていの背を、利政は優しく摩っていく。

「疲れたのだろう。誰も咎めないから、ゆっくりと目を閉じて休みなさい」

おていは微かに頷き「ありがとう」と呟くと、ゆっくりと瞼を閉じて動かなくなった。利政は暫く背を撫でて、やがて深く嘆息した。

「兄上っ」

背後で声がし、利政はびくりとすると声の主を振り仰いだ。鳥居の前に息急き切った利通が立っていて、利政に険しい視線を向けていた。

「その人は……」

「今、旅立った。薬は飲ませてはいない」

利政は、おていを賽銭箱に寄り掛からせるようにすると立ち上がって利通と対峙した。

「四郎兵衛さんを頼みます。野郎、何処へ行った」

文七の怒声が聞こえる。

「利通、頼みがある。未だ、この者達の薬を回収出来ていない」

利政は道具箱から帳面を取り出すと、利通の手に握らせた。

「私は義直様の元に戻らねばならぬ。戻らねばあの方は、一人で逝かれてしまうだろう。今、ここで捕われる訳には行かぬのだ」

利政の目は真剣だった。

「兄上、一体何があったのですか。どうしてこんな真似を」

「いずれ、きっと話す。すまぬ利通。後を頼む」

顔をくしゃりとさせながら懇願すると、そのまま利政は走り出した。

「兄上、待って下さい」

追いかけるが、利政は行き交う人々を器用に避けながら走り去ってしまった。

「くら先生、四郎兵衛さんの縫合を頼む」

平助の叫び声が聞こえ、利通は利政の後ろ姿を見つめながらも切見世の方へと走り戻って行った。

 

その後、利政は久世藩中屋敷に戻り、義直と共に逐電した。新吉原の一件は四郎兵衛会所だけの騒ぎに止まらず、面番所の隠密廻り同心を経て月番の替わった北町奉行所へ話が届き、大岡越前守が盾になる事も出来ずに、お上に到達してしまった。すぐさま、久世藩藩主三輪義剛、そして利政の父である小倉利継が召喚され、詰問を受ける事となった。

久世藩の危機を知り、利通は気が気では無かった。

「診療所の事は良いから、大岡様の力をお借りして、毅と共にお兄様の行方を探しなさい」

つむぎに言われて、連日足を棒にして利政等の行方を探った。国許に戻ったという報告はない。未だこの江戸に居るのだろうか。

「附子を所持しているからな。服毒して、海にでも身を投げちまったか」

「そんな事はありません。兄は、きっと事の次第を話すと私に言いました。その約束を果たさずに、命を断つ事はありません」

全く情報がなく、既に命を断ったのではないかと推察する毅に、利通はいきり立った。

それから十日が過ぎても、利政と義直の行方は掴めなかった。霜月に入り、日中の気温もぐんと下がり、人々は火鉢や炬燵の側から離れられなくなり、綿入れの着物を纏って暖をとった。酉の市が始まり、診療所は平助が深川八幡宮に出向いて熊手を買って来た。診療所では毅のからくり座布団が活躍し、隙間風に悩む長屋の老人達が、病気でもないのに集まって来た。

「隙間風は、後で毅に目貼りさせに行くから、ちゃんと着込んで寝てね」

夕刻になり、漸く腰を上げた老人達に言葉を掛けて送り出すと、入れ替わりに利通と毅が大岡越前守を伴って戻って来た。利通の顔には明らかに疲労が浮かんでいて、今日も収穫が無かったのだろうと推測出来た。

戸を閉め掛けたその時、

「こちらに、小倉利通とおっしゃるお医者様はお出ででしょうか」

毅やつむぎと同世代の寺坊主が、顔を覗かせた。

「私ですが」

「三田の高明院、信善和尚の使いで参りました。これをお渡しするようにと」

懐に差し入れていた文を差し出した。

「高明院だと」

大岡越前守が反応し、つむぎと毅は寺坊主の顔を見てあっとなり、目配せしあった。どうやら、面識があるようだ。

利通は文を受け取り、何であろうかと開いて目を見張った。

「兄と義直様を預かっていると書かれています」

「何」

差し出された文に、大岡越前守が目を通す。

「確か三輪義直の母君は、徳川家に所縁の者であったな。成る程、それで」

頷き、つむぎを振り仰いだ。

「信善和尚様の元に居るのなら、ひとまず命の保証はされているわね。ご苦労様、熊ちゃん。今は、信敬殿だったかしら」

つむぎは寺坊主を見て微笑んだ。

「お久しゅうございます」

信敬は、つむぎと毅を見て頭を下げた。

「くら先生、安心なさい。高明院は、私や毅が一時預けられた所。信善和尚は私の心を開いて、医者の道に進ませてくれた方。紀州徳川家の寄進によって建てられた寺院で、それなりの力があるわ」

「兄と義直様は、いつからそちらに」

「逐電されたであろう翌日の事にございます。ご自害なさろうとされていた義直様に、まずは奪ってしまった命を供養してからだと、利政様が切言なされて連れて来られました」

「翌日? 何故、もっと早く」

連絡をくれなかったのだと、利通は責める視線を信敬に向けた。

「人の道に迷い苦しむ者の殺生。義直様が十四名。利政様が六名おられました」

利通は、利政から託された帳面の、既に薬を飲んでこの世を去り、線引きが出来なかった六名を思い返して、顔を歪めた。

「その二十名の位牌をご自身で作ってもらい供養する。それに十日ほどかかり、その間に心の整理も適ったご様子でしたので、和尚様が内々にこちらにお知らせするようにと」

「内々。じゃあ、お上は未だ知らないのか」

毅が尋ねる。

「戸田山城守様には届け出ておりますが、松平くら様に総てを預けるとだけ仰せになりました」

「じゃあ、私の一任で収めて良いという事ね」

つむぎが確認するように信敬と大岡越前守に視線を配る。

二人が静かに頷いた。

「早速高明院に向かいましょうかくら先生。悪いようにはしないわ」

つむぎは再び術着に袖を通すと、手持箱を抱えた。

「兄を救えるのですか。つむぎ先生は一体」

「ご覧の通りの医者よ。病んだ心を言霊で治すのも務めよ」

言うやつむぎは草履に足を乗せた。

 

三田は、大名の中屋敷や下屋敷、そして寺社が密集する。寺社の周辺には門前町が居並び賑やかである。そんな門前町の外れ、煩悩の数と同じ一〇八段の階段を上ると高明院はあった。信敬やつむぎ等と共に境内に足を進めた利通は、一万坪は下らないその広大な敷地に目を見張った。その中で命を育む草花の手入れも見事である。

「あら」

突然につむぎが立ち止まり、空を見上げて掌を掲げた。ぽつり白いものが掌に乗り、直ぐに解けた。

その時。つむぎの脳裏に、未だ若いつむぎの盾になり、降り頻る雪の中を斬られ鮮血をまき散らした男の姿が過ぎった。思わず拳を握り締めて、その光景を遮るべく目を閉じた。その気配に信敬が立ち止まり、「大丈夫ですか」と声を掛けた。

「えぇ」

つむぎは頷くと、毅然として歩き出した。

暫く歩むと、紫衣を纏った信善和尚が、つむぎ等を出迎えるべく本堂の前に佇んでいた。

「ごぶさた致しております」

「ご健勝で何よりです」

和尚は腰を曲げて、つむぎに頭を下げた。年は六十を超えているだろうか。白髪に長い顎鬚を生やし、穏やかそうな顔付きであるが、言葉には重みを感じた。

「お二方は中におられます。皆様が来られる事は伝えておりません。私の独断でお呼びだてしております」

「ありがとうございます」

「おや、毅も越前守殿も一緒か。越前守殿は刀をお預け下され」

毅と大岡越前守は和尚に頭を下げ、大岡越前守は腰から刀を抜くと側の信敬に差し出した。

つむぎは本堂を見据えると階段を上り始め、利通達も後に続いた。

 

本堂に入ると、中央に大きな釈迦如来が安置されていた。その両隣には阿弥陀如来と大日如来が並ぶ。その釈迦如来の前に義直が、少し後ろで利政が座禅を組んでいた。

利政は先日会ったときより頬がこけ、思いつめた感が滲み出ていた。義直は相変わらず透き通った肌をしていて、時折足が痛むのか顔を歪めながら身体を揺らしている。

つむぎはそんな二人の様子を、じっと見つめた。

「兄上」

「利通……!」

思い余って声を掛ける利通に、利政は一瞬身体をぴくりとさせると振り仰ぎ、驚いて立ち上がった。

「どうしてここが」

「ここは徳川家所縁の寺。庶民が気安く立ち入れる場ではない筈だが、和尚殿の情けか」

振り返ることもなく義直が言った。

「利通、すまぬ」

絞り出すようにただ一言を告げ、利政は深く頭を垂れた。

「謝るぐらいなら、何故こんな真似をなされたのです」

「医者だから、人の死期が分かる。どんなに手を尽くしても、もう助けられないということが分かる。病床で言われるのだ。もう楽にして下さいと。この手を掴まれて、何度も何度も懇願される」

利政は己が腕を掴み見つめながら、言葉を震わせた。

「どんなに痛み止めを処方しても、血を吐き、もがき苦しみ、食も喉を通らずに痩せ衰えて力尽きる。その姿を見るのが辛かった」

「だからって、人の命を簡単に奪うことは許されません」

利通は首を振った。

「叔母上の子が六つで亡くなられたことを憶えていますか」

利通の言葉に、利政は頷いた。

「七つまでは神のうち。やっと授かった子供で、絶対に神の元へ帰すものかと、必死に小さな命の灯を守ろうとされていたでしょう。この世には、生きたくとも生き永らえることができない命が数多くあるのです。勝手に摘むのはただの傲慢です」

「くら先生の言う通りだ」

平助が口を開いた。

「私は疱瘡を患った。神田の老舗和菓子屋の跡取りで、結納も決まっていた。両親が先に逝ってしまったから、意地でも生き抜かなければと必死に意識を保とうとした。結果、こうしてこの世に残ったけれど、顔に疱瘡が痣の如く広がった」

平助はその痣をなぞった。

「接客をする以上、この顔はまずかった。許嫁も私を怖がり破談となり、替わりに弟の嫁に収まって、今は弟と共に店を切り盛りしている。私は生き地獄を味わって、日本橋で荒れ狂っていたところをつむぎ先生に拾われた」

「私もそうです。誤診で、人を殺めたと思っていました。でも、殺めたのなら、次は紡ぎなさいと。命を救いなさいと。それが医者だと。つむぎ先生やたすく先生、毅さんの力を借りて、腕を振るっています」

ぱんぱんと手を叩く音がして、話が途切れた。

「見事なる詭弁だ。片腹痛いわ」

義直が能面のような表情を向けた。

「私は、跡取りを作るべく勝手に産み落とされ、挙句は嫌われて毒を盛られたりもした。病に何度も伏し、父上からは何とひ弱なと蔑まれ、それならば我が弟義隆に家督を譲れば良いものを、母上が徳川所縁の者であるが故だけに奉り上げられる」

「義直様、お言葉ながら一度でも己の辛さを殿や義隆様に語られた事はありますか」

利通の言葉を聴いて、義直は薄ら笑いをした。

「誰も耳を貸さぬ。己の保身が大事。父上はこの江戸の上屋敷に住まいながら、私に一度とて逢おうとはなさらない。国許の義隆に至っては、取り巻きが私を遠ざける。それを如何ようにせよというのだ」

「それこそ、母君に」

「無駄だ。私が久世藩を背負うことしか頭にない。だが私は、こんな身体では長生きは出来まい。何れは義隆の時代となろう。ならば、初めから多くの人心を惑わすことなく、家督は義隆で良いではないか。違うか」

義直は吐き捨てるように言った。

「それを、嫡男の定めと、曲げてはならぬと言われる。病に伏しても、見舞われるどころかもっと強くなれ、励めと言われる。だが、身体がついては来ない。辛いのだ。ならばどうすれば良い。どうすれば義隆が家督を継ぎ、久世藩の安寧を得られる。それは、私が早世するしかないだろう」

義直はまた、能面のように顔を凍てつかせた。

「それで、道は変えられると、決まった道から外れられると、侍医となった兄上に薬を処方させるが為に、他の者達でお試しになられたのですか」

「そうだ、賭けをした。決まった道を歩むしかないと苦しむ者に薬を渡し、飲むや否や。強制はしていない」

「いいえ。薬を毒として渡している以上、こう言った筈です。この道に耐えられないのなら、飲むと良い。それで苦痛からは解放されると。それは、命を断てるとの誘導です」

その言葉に、義直の目が笑う。

「誘導されたとて、決断したは当人だ。多江という女は、不義を致して身籠り、親が決めた結納に怯えて苦しんでいた。小鈴という女郎は、視野の狭さが故に一途の愛を重荷と感じるようになっていた。小鈴は慕う男に別の女の影を見て、己との不釣り合いを感じたようだ」

「寺島村にいた女性は、亀之助さんが連れてきた方ではありません」

「だとしてもだ。己との違い、廓と外の世界との違いは十分に分かったであろう」

義直は微笑を湛え、利通は唇を噛んだ。

「義直様ほどのお方なら、兄上を巻き込んだりせずとも、ご自身で薬の調達ぐらいお出来でしょう。何故……」

「巻き込まれてなどいない。私自らも結果が知りたかった。私はなぁ、利通。ずっとお前が家督を継ぐべきだと思っていたのだ」

利政は悲しそうに微笑んだ。

「兄上」

「お前の方が利発で、何でも直ぐに吸収した。だから私は、部屋の灯りが外に漏れないよう隠しながら、必死に夜通し腕を磨き続けた。いつでも笑顔で、尊敬される兄を演じようと努力を惜しまなかった。なのにお前は長崎で最先端の医術を学ぶことを許され、開業した。正直、妬ましかった」

利通はその言葉に目を見開き、利政を見つめた。

「そんな矢先にあの事件が起きて、お前は藩を追われた。その時私は、一瞬でもほっとしていた。そのバチが当たったのだろう。私も患者に、服毒に因る自死をされてしまった。もしもお前が私なら、先日話した末期患者にどう対処する」

「側におります。亡くなられるまでずっと、側で声を掛け続けます。兄上、羅生門河岸で亡くなったおていさん、眠っているように安らかな顔でした」

「ほら、お前は自然にそういう言葉が出る。私はお前と再会するまで、ただ苦しくて小倉の家が重くて、義直様同様に道を外れられたらと思ってしまっていたのだ」

利政の瞳から、一筋の涙が溢れて落ちた。利通も言葉に詰まり、今にも溢れ出そうな涙を堪えるべく、上を仰ぎ見た。

「病気がちで永くはない命ですって。最大限、治す努力をしての言葉かしら。家督の件だって、継ぐのが嫌なら、直接あなた自身で公方様に掛け合ってみればいいじゃない」

つむぎが突然に語気を荒らげて、義直に険しい表情を向ける。

「何を馬鹿な」

「死ぬ覚悟があるのなら、何だって出来るでしょう。違う」

つむぎは遠慮なく、義直を責め立てる。

「治す努力もしないで、自分ばかりが哀れだと思っている。確かにこんなお馬鹿さんが藩を継いだりしたら、家臣達も城下の者達もたまったものじゃあないわね」

「つ、つむぎ先生」

止めようとする利通だったが、まぁ見ていろというかのように毅が首を振った。

「貴様、何様のつもりだ。たかが医者風情の立場で、私を愚弄するか。武家の立場を分からぬ者が、口を挟むな」

その言葉に、つむぎはふっと笑った。

「私はね、盗賊に育てられたの。赤子のうちに庵を襲われ、母は命と引き換えに私を生かしてくれたわ」

その言葉に義直は一瞬、眉を顰めた。

「そこで、俺と姐御は知り合った訳さ。子供は鍛えれば足は速いし、狭い所もすり抜ける。ヘマすりゃあ間引かれて、また新しいのがやって来る。俺はヘマが多かったが、器用なところがあるからと、姐御がいつも救ってくれたから今がある」

毅はそう言って、にっと笑った。

「本名は松平くら。私の父は、紀州藩徳川光貞」

つむぎはさらりと言い、胸元から葵の紋が入った守り袋と懐剣を取り出して見せた。

「現公方吉宗が私の兄よ」

つむぎの正体を知らなかった者達は、驚愕して言葉を失った。だが確かに、思い当たることはあった。診療所の薬他の援助、小鈴の養生場所を決める際の老中の裁断。大岡越前守と見知った仲。

「母は、峠の茶屋の娘だったらしいわ。鷹狩りに来られた際に立ち寄られてお手がついたそうで私が産まれた。まぁ、心から望まれる立場では無かったけれど、藩が用意した何処ぞの家臣の屋敷の蔵での出産だったらしいわ」

つむぎが淡々と語る。

「出産後は、この守袋と懐剣を証として松平姓を賜り、それと引き換えに争いを避けるべく表舞台には出ぬようにと、紀州深くの山奥の庵を与えられて過ごすことになったの」

不遇な人生を振り返っているというのに、つむぎはどこか達観している顔付きであった。

「親と思っていた盗賊頭を刺し殺して、盗賊改め方に踏み込まれて救われたその時、私の出生が明らかになってここに預けられたのよ。紀州藩は私の扱いに相当揉めたようで、女だし、それなりに教養を身に付けさせて他家に嫁がせ、うやむやにする話に纏まったみたい」

つむぎが苦笑する。

「でも私自身は、毅を始めとした仲間たち皆が独り立ちするまでは、ここを動くつもりはなかったわ。でも、誰もここから出て行くことが出来なかった」

「和尚様が色々便宜を図ってはくれたんだが、元盗賊という足枷がな。何かあれば真っ先に疑われるし、それが嫌で皆出戻って来ちまった」

毅は首を窄めた。

「気付けば七年も経っていて、身に付けて来た医術でここの一角をお借りして診療所を開くのも悪くはないかと思っていた矢先、紀州では父が亡くなり、公方様の兄上様も次々と亡くなられた。その一年半ほど前から内紛の噂はあって、私には公儀御庭番の守り役が付けられていたわ」
 
「本日より、くら姫様の守り役を務める桂隼人にございます。お見知りおきを」

紹介された男は、五尺七寸の身長に端正な顔立ちをしていた。命懸けで自分を守ると聞かされていたので、気を張り巡らせた怖い男とばかり思い込んでいたが、全く違っていた。

 
「父や兄上様達の死は毒殺だと噂され、当初は紀州藩主となられた公方様一派の仕業ではと言われたわ。でも公方様は身の潔白を主張され、私も狙われぬうちに保護をしたいと申されたの。その手続きを行っている最中、誰が放ったか知れない刺客にここを急襲された。守り役も、一緒に盗賊から救われた仲間達も斬り捨てられたわ」

淡々と語るつむぎの顔が、一瞬歪んだ。

「十数人いた仲間達で生き残ったのは、毅と信敬の二人だけよ」

信敬は、頷く代わりに合掌した。

「それで私は、城の中で姫として生きる事はきっぱりと断った。その身分が、多くの犠牲を生んだから。私は失った命を弔いながら、命を紡ぐ医者としてこれから歩んでいく事を決めたの」

話を訊いていた大岡越前守は、肯定も否定もせずにただ微笑した。

「だからね、自分だけが苦しい、割に合わないとか思わないで頂戴」

つむぎは義直を見据えて、語気を強めた。

「何の為に人は言葉を話すの。意思の疎通を図る為でしょう。一度はねつけられたからって、それで諦めて負の感情に走るなんて愚の骨頂。あなたは服毒死が苦しみからの絶対解放だと思っているようだけれど、他にも逃れる方法はいくらでもあるわ」

その言葉に、義直は真顔になってつむぎを真っ直ぐに見据えた。

「多江さんは、嫁ぐ予定の相手に神隠しにあったとでも言い繕って、何処かで匿ってもらって子を産み育てる事だって出来たでしょう。小鈴さんだって、別世界に飛び込めば一から学ぶわよ。あなたもここに来て色々と学んだでしょう。自分で作り祀った位牌。徐々に形が整っていっているじゃない」

指摘されて、釈迦如来前の仏壇に並べ置いた位牌に目を向けた。確かに、奥の位牌より手前の方が形が整って来ている。

「初めは周囲が小鈴さんを認めなかったとしても、亀之助さんが一から教えてきっと馴染んでいったと思うわ。新吉原でだって、部屋持ちの身分まで上ったのだから、それなりに順応性はあった訳でしょう」

義直は応えずに、つむぎを見つめている。

「つい先日の父親に売られそうになっていたきわさんも、誰かが父親から遠ざけて匿ってしまえば良かったでしょう。現に、彼女の下の子供達は毅が保護して、世話しているわ」

義直は失笑すると、黙って本堂の外へ向かって歩き出した。

扉を開けると、冷たい外気と共に白い粉雪が舞い込んで来た。ふと空を見上げ、そのまま本堂を降り下っていく。

「義直様」

利政が、後を追う。

「今まで、私の言葉に耳を傾ける者は利政しか居なかった。私は無知で、やはり藩主になるべき器ではないな」

「そのような事は」

「多くの命を、この手で溶かしてしまった」

天に向けて掲げる掌に落ちて来る雪の結晶は、義直の手に舞い降りた刹那に解けて水となった。「やり直しなど利かぬ」

義直は呟き、そのまま近くの木まで歩むと、小枝を手折って本堂を振り返った。その小枝を握り締め、すっと首筋に寄せた。

「馬鹿な真似は止めなさい!」

「刀を預けてあるから大丈夫だと高を括っていた」

つむぎが叫び、毅と大岡越前守が義直に向かって走り出す。

「利政、色々とすまなかった。お前は生きよ」

言うや、枝を首筋に突き刺した。

鮮血が、白くなり始めた足許に真っ赤な斑点を描く。

「義直様」

叫ぶ利政だったが、走り出そうとして足を止めた。拳を握り締めて一瞬目を伏せて唇を噛んだが、直ぐに決意を込めて目を見開くと本堂の利通を振り仰いだ。

「義直様一人に、責めを負わせる事など出来ぬ。利通、すまない」

言うや利政は左の袖口に右手を突っ込むと、何やら取り出して口に含んだ。途端、身体を痙攣させ、身体をくの字に折りながらバッタリと倒れた。

「兄上っ!」

「こんな責任の取り方なんて認めないわよ」

つむぎ等は、本堂を飛び出した。

「毅はくら先生とお兄さんの方の処置を。たすく先生は私と共に、あの分からず屋のひねくれ嫡子をこっちの世界に留めおくわよ」

「はいっ」

つむぎ等は二人に走り寄り、その場に医療道具を広げた。

「和尚様、場所を移せないのでこの場を暫し汚しますが、お許し下さい」

「構いません。信敬、越前守殿、皆が凍えぬよう炭火を」

「承知しました。越前守殿、毅様が作りましたからくり火鉢が幾つか本堂にありますので、それを」

信敬と大岡越前守は、本堂へと走り出した。

「助けるでない。このまま逝かせろ」

荒い息を繰り返しながら、義直が訴える。

「死んで償いが終わると思っているの。遺された者達には、大きな縫い合わせられない傷が残るわ。そんなの許さない」
「しかし、人を殺めれば死罪であろう」

「さっきの私の話を聴いていなかったの。私も盗賊頭を刺し殺しているのよ」

つむぎは素早く手を動かし、平助に指示を与えながら血止めを施し、傷口を縫っていく。

「殺めた命に報いたくば、今度は紡ぐ努力をなさい。今、私達が行っているように。家督を棄てて、ここで修行をしながら人助けに奔走なさい」

つむぎは一喝した。

「兄上、吐き出して下さい」

利通は漏斗に管を差し入れて利政の口に差し込み、食塩水を流し入れた。

「脈はある。含んだのは附子じゃないようだ。未だ助かる」

毅の言葉に、利通は大きく頷いた。利政が激しく咽せて、飲み込んだ物を吐き出す。

「兄上。義直様はつむぎ先生が助けます。だから兄上も、生きて下さい」

利政に強く言い放つと、利通はまた口に食塩水を流し込んだ。

 

迅速な手当てのお陰で、利政と義直は命を取り留めた。今は部屋に布団を敷いて寝かされている。

「では私は、事の詳細をご老中戸田山城守様に報告に行って参ります」

「くれぐれも、今回の真相が漏れないように。それから、ここの二人は藩を護るべく命を賭したと。けれど、藩主及び藩医小倉殿は、毎年必ずこちらへ二人だけで顔を出し、今日より生まれる二人と、心を通わせるように伝えて」

「御意のままに」

大岡越前守はつむぎに短く応えると、降り頻る雪の中を立ち去っていった。

「本当に、私と利政を助けたのだな」

目を開けて塞がれた傷口に手を当てて、蒲団の中で義直が呟いた。

「あんなにも、人の命を奪ってしまったというのに」

「あなた言ったじゃない。誘導があったとしても、最終的に服毒を選択したのは当人だって。その通り、死の真相を知って嘆く人は多かったけれど、薬を手渡したあなた方を訴え出る人達は居なかったわ」

「そうか」

「同じ空の下に生きる者としては、悲しい限りだけど。だから私はもっと多くの人と語らっていくわ」

その時、利政が薄らと目を開けた。

「兄上」

「……私は、生きているのか」

利政は目を配り、覗き込む利通に驚いて尋ねた。

「兄上にはまだまだ、私の前を歩んでいて欲しいですから」

「だが、私の手は汚れてしまった」

「いいえ。兄上の心に優しさがある限り、再出発できます」

利政の瞳に、涙が光った。

「得度は、傷が癒えた頃合いをみて正月明けに致そう。それからは今の名を、信義様、信政様と改めて頂きます」

「ここへは、徳川所縁の者達は勿論、時々門前町の人達が花や供物を届けにやって来るわ。その人達の安寧を、見守る務めを果たして貰うわよ。お兄さんは、ここで開業するのも良いんじゃない」

「開業。私が利通のように」

利政は目を見開いた。

「何年先になるか分からないけれど、和尚様のお許しが出たその時には、長崎へ遊学も良いんじゃないかしら」

その言葉に、利政の顔がくしゃりとなった。

「そうか、利政はまた腕を揮えるのか」

「あなたはどうしたいのかしら。医者を目指したいのなら、たすく先生を指導につけるわよ」

「私ですか」

急に振られて、平助は驚愕した。

「たすく先生の腕前もだいぶ上がって来たし、人に教える事でまた色々見えて来るものがあるわよ」

「いや、私には不向きだ。強いて言うならば、からくりの方を学びたい」

「なら俺の出番だな。よし、指南しよう。そしてここを江戸随一のからくり寺にしてやろうじゃないか。なぁ、信敬」

「それは困ります」

信敬は眉根を寄せた。

義直は、ゆっくりと蒲団から起き上がるとその場に座した。

「この度は、我らが不始末を穏便に収め、且つその後の道までご用意下さいました事、感謝致します」

深々と手をついて頭を下げると、利政も起き上がり義直に倣って頭を下げた。

利通も深々と頭を下げた。

「そんな堅苦しい真似は止めて頂戴。これからは皆して見守っているから、きちんと生きている証を形に示してね」

言ってつむぎは、朗らかな笑みを浮かべた。

 

それから煤払いなどの大掃除を経て江戸の町は正月を迎え、今日、利政と義直の得度の日を迎えた。二人の新たなる門出を祝うように、雲一つない青空がどこまでも続いていた。

つむぎと利通は、得度に立ち会う為に高明院へやって来ていた。あの日以来久々に顔を合わせる利政と義直の顔は、まるで憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしていた。時間までは境内を散策し、訪れる者達と話をすると良いと和尚に言われ、義直は一人、門前から階段下を見下ろしていた。

先ほどから気になる少女がいた。この寺に供える為だろうか、左手に花を抱えているが、もう一方の右手には杖が握り締められていた。そして一〇八段ある階段を、一歩一歩踏み締めて上って来る。

「どうしたのかしら」

佇む義直に気付いて、つむぎが側にやって来た。

「あの者は、目が見えていないのではないか」

「あぁ、おはなちゃんね。私が診療に出向いているこの近くの花売りの娘さんよ。盲目ではないけれど、濃霧の中にいる感覚なんですって。ここの仏様に供える花でも持って来てくれたのかしら」

「手伝わなくて良いのか。踏み外したら命が危ぶまれるぞ」

義直は驚いて、おはなを見下ろした。

「大丈夫よ」

つむぎが言ったそばからおはなは階段に躓き、よろりと身体が揺れた。直ぐに杖で体勢を保ったが、はっとした義直は階段を走り降りていた。

「大事なかったか」

はなを支えて声をかけると、

「はい、平気です」

声の方に定まらぬ視線を向けたはなから、凛とした返事が返って来た。

「上まで手を引いてやろう」

「いえ。お武家様でございますよね。勿体のうございます。そのお優しいお気持ちだけで十分です」

はなは健気に微笑み、小さく頭を下げるとまた一歩一歩上へ向かって歩き始めた。

「この階段をよく見えずして、お前は怖くはないのか」

後ろに続きながら、義直は尋ねた。

「もう、慣れましたから。それに、鳥の声や風の音。僅かな光が、ちゃんと導いてくれますので」

「辛いと思った事はないのか」

「そうは思わないようにしています」

上を真っ直ぐに見つめながら、はなが応える。

「私の家の前に住んでいた女の子は、身体が弱くてずっと寝たきりのまま死んでしまいました。一度も外でこうやって歩く事も出来ずに。でも私は、平地で手を引いて貰えれば、少し走る事も出来ますし、こうしてお寺にお花を届ける手伝いも出来ますから。私、幸せですよお武家様」

はなの心はぶれない。

「そうか」

「それに、こうして心配して声を掛けて下さる優しいお方にも出会えますから。本当にありがとうございました」

漸く階段を上りきり、義直の方を振り返って深く頭を下げた。

「私は優しいか。そうお前の心の目には映っているのか。私は先日まで心に鬼が巣食っていたのだ」

はなの目の高さに屈み、じっと目を見据えながら尋ねた。

「お顔に触れても宜しいですか」

杖と花を足許に置くと、はなは義直の顔の方に両の手を伸ばした。ひんやりとした手が、義直の顔に触れる。

「光を通して見えるお顔は色がお白くて、とても肌は温かです。それに鬼の角は私の目には見えませんから、お武家様はお優しいです」

「そうか」

呟く義直の瞳から、つっと涙が溢れて落ちた。

「お武家様」

はなが、はっと驚いて手を引いた。

「あぁ、上の枝から朝露が顔に落ちて来たようだ。すまない」

義直は花と杖を手にすると、はなに手渡した。

「ありがとうございます。失礼致します」

はなは頭を下げると、一歩一歩奥へと歩んでいった。

義直はその姿を見送りながら、今までにない笑みを浮かべてみせた。

「義直様、つむぎ先生、そろそろお時間との事です」

利通が二人を迎えにやって来て、二人は頷くとゆっくりと本堂へ向かって歩き出した。

 

釈迦如来を前にして法衣を身に着け手を合わせて坐す義直と利政。義直の剃髪を和尚とつむぎが行い、利政を信敬と利通が行った。

「では、これよりは信義、信政として新たなる道を開かれよ」

和尚に言われ、信義と信政は黙礼した。

「兄上、早速こちらで診療を始めると伺いました」

「あぁ。ただ、私は死んだ身になっているので、公には未だ叶わぬのだが。和尚様を頼られる方でご病気の方がお出でであればというのが条件だ」

「そうでしたか。それでもまた、術着に腕を通す兄上を見る事が出来るのが、私は嬉しいです。それに色々と相談出来る事も」

「おいおい。こちらに入り浸って診療所を疎かに致すなよ」

信政は苦笑いをした。

「それから兄上。母上から内密に文が届きました。互いに元気で励むようにと。無事を安堵しておいででした。そしていつしか再び逢える日を、心待ちにしているとの事です」

「うむ。いつか二人で必ず」

利通と信政は頷きあった。

「和尚様、この度は数々の骨折り、ありがとうございました」

「何の何の。そなたも、だいぶ逞しくなったのぅ」

「色々とありましたから」

つむぎは嘆息混じりに苦笑した。

「あの日の事、未だ夢に見るか」

「……はい」

「あれからの事を、何か聞かされたか」

「何かとは」

訝しげに聞き返すつむぎに、和尚は一瞬眉を顰めた。

「そうじゃ、これから診療所へと戻る前に、ちと足を伸ばして北品川宿へ行ってみなされ。松木屋という旅籠に、背丈五尺七寸の右隻眼の男がたまに逗留していると聞く」

その言葉に、つむぎの鼓動がばくんと音を立てた。

 
「わぁ、背が高いのね」

「五尺七寸あります。姫も直ぐに、背が伸びられますよ」
 
「姫、早くお逃げ下さい。毅、熊、頼んだぞ」

白刃を振り翳し、潰れた右眼から血を流しながら男が叫ぶ。

「姐御、早くこっちだ」

「嫌よ。桂さんが一緒じゃなきゃ嫌」

「駄目です、くら姉。早く」

「もう、私の為に誰かが傷付くのは嫌。桂……隼人さんっ!」
 

「桂は、立派に散りました」

「嘘」

「それが、御庭番の役目です」
 

つむぎの脳裏に、古い記憶が蘇る。

「生きておいでなのですか」

震える声で尋ねる。

「私は姿を確認してはおらぬ。だが、そういう話を聞いた」

「いつお聞きになられたのですか」

「もう、何年になるのかのう。私は、そなたが知った上で、想いを断ち切ったのだと思っておったが、何も聞かされてなかったか」

つむぎはきゅっと口を結んで、暫し思案顔になった。そして踵を返すや、本堂を飛び出して行った。

 

和尚が言った北品川宿の松木屋は、東海道沿いの集船場近くに位置するこぢんまりとした旅籠であった。つむぎはその名を見つけるや、躊躇う事なく店の中へ飛び込んだ。

「もし」

声を掛けると「いらっしゃい。お泊まりですか」と、番頭らしき男が奥から出て来た。

「すみませんがこちらに、桂隼人と名乗るお方が逗留されておりますでしょうか」

「桂……」

呟いて、男は首を傾げた。

「右隻眼の五尺七寸ある背丈の人です」

「あぁ、新堀様の事でしょうか。新堀半蔵様」

今度はつむぎが首を傾げた。身分を隠しての変名だろうか、それとも全くの別人なのか。

「その新堀様は、今いらっしゃるのですか」

「いえ。先ほど長逗留を終えられて、お立ちになられましたが」

「えっ。どちらに行ったか分かりますか」

「連れが来たので、船に乗るとおっしゃっておりましたが」

今、走り通って来た所だと、つむぎは確信した。

「ありがとうございます」

頭を下げると、つむぎは店を飛び出して走り出した。

「つむぎ先生」

店から飛び出して来たつむぎを見付けて、和尚に頼まれて追って来た利通が声を掛けた。だがつむぎは振り返る事もなく、海の方へ向かって走って行く。

何が起きたのか分からないまま利通は反転すると、つむぎを追って走り出した。

集船場には、帆を張った廻船が何隻も係留していた。つむぎは立ち止まり、端から隈なく目を配った。

丁度出ていく一隻の甲板に隻眼の男を見付けて、つむぎはその方へと走り出した。

「待って。その船待って!」

つむぎは叫喚するが、船はどんどん沖へと向かっていく。

「桂さん……隼人さん!」

名を叫ぶと、甲板に居た男がつむぎに視線を向けて硬直した。

「やっぱり」

つむぎはその顔を見て確信した。

「隼人さん!」

声を張り上げると、男はくるりと背を向け、つむぎの視線を避けるように足早に船の死角へと入っていった。

「先生」

そこへ、漸く息を切らせながら利通が追い付いた。

「どなたを追われていたのですか」

「生きていた。あの人、生きて」

だがつむぎは、放心状態で何度もそう繰り返し呟くばかりであった。そんなつむぎの表情を初めて見た利通は、小さくなっていく船とつむぎを交互に見つめた。吹き付ける冬の風は厳しく、目前の水面をゆらゆらと揺らしていた。

 

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