医者という長年の夢がかなった開業初日、十五の娘を誤診で死なせた小倉利通。家も藩も追い出された彼を拾ったのは、蔵紡診療所を営むくら(つむぎ先生)だった。(第1話は小説幻冬2019年7月号をご覧ください)
利通(くら先生)、くら(つむぎ先生)。そして、2人の後押しがあって医者になるために学び始めた平助(たすく先生)。彼らのもとに舞い込んだ案件は、次第に雲行きが怪しくなり……。
* * *
小倉利通が蔵紡診療所にやって来て二ヶ月が過ぎた。秋も深まり、朝夕は肌寒さを感じるようになってきた。それでも未だ夏の余韻を楽しもうとした結果として、食傷を訴えてやって来る者達が後を絶たなかった。
「美味しいのは分かりますが、この時節に朝から冷えた瓜を五つも頬張れば、それは下里腹にもなりますよ」
正午間近になって腹が痛いと青褪めた顔をしてやって来た男に、利通は嘆息混じりに苦言を呈すると、
「今、ゲンノショウコを処方しますから、それを煎じて飲んで下さい」
「ありがとうございます、くら先生」
男が力なく頷くのを見て立ち上がり、隣の部屋へと向かった。
「たすく先生、この薬を処方……」
診察録を片手に部屋に入ると、たすく先生こと平助は、つむぎと共に釘を踏み抜いた男の治療に当たっているところであった。
「痛ててて。先生、痛い痛いって」
「裂傷しているんだから痛いのは当たり前。もう少しだから我慢して」
男が暴れないように後ろから平助ががっしりと支え、つむぎは手際良く焼酎で傷の消毒を行っていく。
「はい、これで良し。たすく先生、後は石灰と蒲黄を用意して晒しで巻いて」
平助はつむぎが頷いたのを見届けて即座に入れ替わるや、てきぱきと患部の治療を施していく。
利通はそんな平助の様子を見つめ「また腕を上げたな」と呟きながら、薬は自分で処方するかと、先日整理して少しばかり小さくなった百味箪笥の方へ向かった。
その時「つむぎ先生、助けてくれ!」と叫び声がして、ねじり鉢巻をした若い大工の源治が飛び込んできた。
「長崎屋の二階の改修をしていた兄ぃが、足を滑らせて落ちた。血だらけなんだ」
「血だらけって、意識はあるのかしら」
急いて話す男の目を落ち着いて見つめながら、つむぎが尋ねる。
「額から血が流れて、右肘は骨が皮膚を突き破ってた。意識は朦朧としちまってて、大八車が手配出来次第、乗せてここへ運んで来る手筈なんだ。だから先生、兄ぃを助けてくれ」
「かなりの重傷ね。たすく先生、これから施術室に向かうからこの診療所をお願い」
「承知しました」
「くら先生は源治さんと外で患者を待って、そのまま毅の所へ向かってくれるかしら。私も直ぐに行くから」
利通は処方薬を作り終えて頷くや、草履を履いた。
「あ、あの」
源治が戸惑いの表情を見せる。
「あぁ。大川毅さんという、つむぎ先生の弟さ……、弟分の方が人形丁で、この江戸で最新式の施術室を提供してくれているんですよ。そこへ、患者さんを運びます。大丈夫、任せて下さい」
慌てて言い直した利通は、源治に力強く告げた。
毅の家は人形丁の一角にあり、芝居小屋を改築でもしたのだろうか、診療所にも引けを取らない広さがあった。からくり仕掛けで縦に戸が開き、中に入ると左奥に施術室がある。
回転式歯車で高さが調節出来る施術台。数体のからくり人形が、施術道具や薬を盆に乗せて居並び、ろうそくの灯りを増幅させたからくり筒が、部屋の隅々まで明るく照らしていた。
利通に指示されるまま患者を運んで来た大工の仲間達は、見た事もないからくりの数々にただ目を見張るばかりであった。
「よぉ、くら先生。今日は姐御抜きでやるのかい」
背後からぶらりと、鮮やかな端切れをつぎはぎした着物を着流した利通に比肩する長身の美丈夫な毅が入って来た。
「抜きじゃないわよ。毅、準備を急いで。源治さん、後は任せて頂戴。皆と隣の部屋で待っていて」
つむぎはやって来るや、源治等を促して施術室から出した。
「くら先生は額をお願い。私は右肘の方を処置するわ。じゃあ毅、いつも通りに」
「合点承知」
言うや煌々たる灯りが点り、施術台の高さが調整されると、利通とつむぎの利き腕の脇に、施術道具を盆に乗せたからくり人形が居並んだ。そして、患者の背の辺りに電極のような板を差し込み、そこから小型の箱の中に延びた線をからくり人形がゆっくり回転させていく。途端、患者の身体がぴくぴくと数度痙攣すると、直ぐに全身が脱力した。その様子を見て、つむぎが脈を取り利通が口元に手を翳して呼吸を確認する。そして頷き合うと同時に居並ぶからくり人形達が道具を差し出し、施術が始まった。
毅は利通とつむぎの動きを同時に見極めながら、からくりを操って絶妙に道具を差し出し、灯りを調整していく。
「おっ。くら先生も、だいぶこの施術に慣れて来たな。速度が一定して来た」
「お陰様で」
応えながらも、手だけは動かし続ける。
確かに、初めてこのからくり施術台の前に立った時には驚いた。世界の情勢に明るい長崎でも、茶を運ぶからくり人形ぐらいしか見た事はなかった。それはぜんまい仕掛けで、巻き加減が甘いと、目前に届く前に止まってしまう代物だった。だからあまり利便性が高い物という認識をしていなかったが、毅が作り上げたからくりは違う。
「くら先生はいつも通りで大丈夫。毅が総て合わせるから」
つむぎの言う通り、利通の施術速度に合わせて、その時その時に必要な道具が目前に運ばれて来る。
施術は時を争う。次に必要な道具に目を移した刹那に、傷付いた臓器から激しく血が噴き出して来る事がある。慌てふためき判断を鈍らせれば、それが患者の死に直結してしまう。医者にとってそれは一番恐ろしく致命的だ。だが毅のからくりは刹那を埋め、出血が致命傷となるのを回避する。
「毅さんは、医術の心得があるのですか」
あまりにも動きが滑らかなので、そう尋ねた事があったが、毅は「全くない」と首を振った。昔からのつむぎとの付き合いの中で、動きを見て憶えただけだと言う。
昔からというのは、つむぎと共に盗賊の一味の中に居たという事で、盗賊改め方によって救い出された一人だそうだ。命を庇って貰った事があり、その恩に酬いるべく普段は舞台のからくりを作りながら、つむぎの医療に貢献しようとしている。
ただ、こうした立派なからくりを作る一方で、突拍子もない物も数多く生み出す。利通が診療所にやって来た毅を初めて見た時も、背中に幾つも組み合わせたゼンマイを背負い、その先に伸ばした竹串に組み入れた渋団扇をまるで風車に見立てたかのように刺していた。夏のさなかの順番待ちの不快を少しでも解消するべく涼風を運ぶからくり、との事だったが、
「邪魔。たすく先生、全部抜いちゃって」
つむぎに迷惑がられ、平助に有無を言わさず渋団扇を抜き取られてしまっていた。
それでも懲りずにからくりを引きずってやって来るものだから、界隈では傾奇者と呼ばれ、八丁堀の同心達に目を付けられもしているが、未だしょっ引かれるまでには至っていない。
つむぎは脇目も振らず、ただ患部だけを見つめて手際良く縫合していく。
「はい、こっちは終わったわ」
「私の方も、問題ありません」
漸く利通を振り仰ぐつむぎに、額の縫合痕を確かめながら利通が頷いた。
「うん。後は当人の気力次第ね。きっと直ぐに良くなるわ。源治さんが心配しているだろうから、くら先生声を掛けて来て」
利通は頷くと施術室から出て行った。
「毅、あなたは仕事に行かなくて良かったの。有吉座の亀之助さんに、新公演のからくりの仕切りを頼まれているって言っていたじゃないの」
「あぁ、あれね」
気のない返事をする。
「何、不服そうな顔をするのよ。千両役者とまではいかないけれど、最近の大衆芝居の中じゃあ群を抜いているそうじゃないの」
「いつもの瓦版情報かい」
「いけない」
「いいや」
毅は首を窄めてみせる。
「じゃあそこに書いてなかったか。亀之助、新吉原に入り浸るってさ」
戯けたように言うと、途端につむぎが眉を顰めた。
「それも太夫ではなく、仲見世の格子女郎らしい。同郷だったそうで、何時しか逢いたいが情、見たいが病ってなもんでね。肝心の亀之助が座に居なけりゃ、芝居の稽古もないだろう」
嘆息して、毅は施術の片付けを始めた。
「兄ぃの施術が、無事に終わったそうで」
利通に連れられて、源治が涙ぐみながら入って来た。
「裂傷は縫い合わせたし、折れた腕は添え木を当ててあるから、元に戻るわよ。当面は化膿が心配だから、貼り薬を処方するわね。後で取りに来て頂戴。今、施術に耐えられるようにする為に、からくりで神経の感覚を麻痺させているから、目を覚ましたら四輪車に乗せて、毅に送らせるわ」
「四輪車」
それは何だろうかと、源治が小首を傾げる。
「その昔、隣の大陸に当たる蜀という国の諸葛亮孔明なる軍師が乗っていたとされる代物で、まぁ簡単に言えば、人が座って道を自由に往来出来る大八車みたいなものだ」
「はぁ」
毅の大雑把過ぎる説明で更に混乱した源治に、利通が奥から四輪車を運んで来て、座ってみせた。
「大したものだなぁ。これなら押して運ぶ人手も、掻き集めなくて済みますよね。常備しているんですか」
まじまじと見つめ、源治が感嘆する。
「私はね。治療に役立つものなら、何でも取り入れるようにしているの。たった一つの命。一度きりの人生だもの。存分に謳歌したいじゃない」
「その割にはよく、俺の出来立てのからくりを破壊したりするよなぁ」
「只のがらくたと判断した時は、邪魔でしかないから」
毅のぼやきを、つむぎはばっさりと斬り捨てた。
夜の帳が下り、表ではあちらこちらから虫の音が聞こえ始めた。そろそろ閂をして休もうかと玄関先にやって来た利通は、
「番太郎さん、有難うよ」
と長屋の入口付近の方から叫ぶ毅の声を聞いた。こんな時間に木戸を潜り来るなんて何事だろうかと思っていると、「開けてくれ、急患だ」毅が大きく戸を叩き、利通は慌てて戸を開いた。
その声を聞き付けて、つむぎと平助も奥から走り出て来た。
「今、俺のところに亀之助さんが新吉原で大喀血したって報告が来た。どうも労咳の疑いがあるらしい」
「大喀血したって、それまでに自覚症状があったでしょう。なのに黙って今まで新吉原に通い詰めていたっていうの」
眉を吊り上げ、つむぎは呆れたように言った。
「俺も呆れたよ。だがな姐御、場所が場所だ。他の者達への感染を疑う。会所の四郎兵衛さんが妓楼の松代屋を封鎖して、今戸から医者を呼んで亀之助さんを運び出そうとしたそうなんだが、相手の女郎小鈴が、部屋に籠城して開けないらしい」
「そんなもの、ぶち破って連れ出しなさいよ」
つむぎの言葉に、毅が即座に首を振る。
「当の亀之助さんも、虚ろながらも信頼出来る医者以外には診て欲しくないの一点張りだそうで、来るまでは部屋を出ないと言っているらしいんだ。それで、疱瘡の時に尽力した姐御の事を思い出した四郎兵衛さんが、中継ぎしていた俺の所へ手下を寄越したって訳さ」
「先生。そうなると既に、半刻は経っていると考えた方が良いですね」
「本当に大喀血ならば、意識混濁から死に至ってしまう事もあり得ます」
平助と利通はそれぞれ言って、つむぎの裁断を仰いだ。
「分かったわ、行きましょう。くら先生は一緒に来て頂戴。たすく先生はここに残って、これから私が言う薬を調合しておいて。後で会所の人に取りに来て貰うから。それと、私達の帰りが遅い時には、診療所を頼むわね」
「はい」
「毅もここに残って頂戴。向こうの状況次第では、また荒療治しないとならないから」
平助と毅が頷いたのを確認すると、つむぎと利通は術着を纏った。
「表にからくり筒を付けた四輪車が置いてある。姐御を乗せてくら先生が押して行ってくれ。加速したら後ろの台に飛び乗れば、そのまま突き進む」
「ちゃんと試乗しての事なんでしょうね。途中で私達が大怪我するのは御免よ」
「きっと大丈夫だ。時間を短縮させたいなら、使うべし」
やけに自信満々に毅が応え、夜のしじまにつむぎの絶叫が轟く中、からくり筒の灯りに光り輝く四輪車が新吉原に向けて疾走した。
明暦の大火(一六五七年)、所謂振袖火事が起きるまで、吉原は毅の住まう近く、日本橋葺屋町にあった。だが火事以降、浅草の山谷に場所替えとなり、新吉原として生まれ変わった。幕府公許の遊郭で、夜の賑わいは群を抜いていた。
見返り柳を越え五十間道を進むと、正面に大門が見えて来る。男にとっては夢を叶える潜り戸であり、女達にとっては関所であった。踏み込む先は苦界。約三町四方の土地。そこに働く遊女は二千人を超えていた。
お歯黒どぶを両脇に見て大門を跨ぐと、直ぐ右手には四郎兵衛会所がある。この廓内の監視の任にあり、初代四郎兵衛以来、四郎兵衛の名は世襲されている。
四輪車の速度は思いの他早く、四半刻ほどで大門の前に到着した。数多の男達が、夢を求めて吸い寄せられるように大門を跨いで行く。
「本当にここは、賑やかな場所だわ」
一つ嘆息して顔を引き締めると、つむぎは利通と共に大門を跨いだ。
「つむぎ先生、久方振りでございます。この度も、お手間を取らせまして申し訳ございません」
会所に顔を出すと直ぐに、手下の者が松代屋に走って四郎兵衛を連れて戻って来た。四郎兵衛は物腰は柔らかであったが、備えている眼光は鷹の如く鋭い。廓を厳しく取り締まっている証しであろう。
「歩きながら話しましょう。状況は」
つむぎが仲見世の方へと歩き出しながら尋ね、四郎兵衛は後に従いつつ小さく首を振った。
「未だ小鈴が部屋を開けません。自身も労咳だと言うので、他の客や遊女達は一階の窓が開く部屋に移して、こちらは今戸の医者が対処しています」
「診察して労咳で間違いないとなった時、亀之助さんと小鈴さんを別々に隔離出来る場所はあるのかしら」
「こちらにはございませんが、妓楼の方で養生所を兼ねた寮を所有しております。亀之助さんは確か、川向こうの寺島村に屋敷を一つ構えておいでの筈です」
「分かったわ」
つむぎが頷いてみせる。
「それから、こちらはくら先生。一緒に診療所を切り盛りしていて、腕は確かよ」
つむぎに紹介されて、利通は四郎兵衛に頭を下げた。
「おや、お武家の出でございますかな」
「はい。父が藩医を務めております」
敢えて何処の藩であるという事を告げずに、利通は応えた。
「相変わらず、人を見抜く目は鋭いわね」
「それが、代々の生業ですゆえ。こちらへは、身分を偽って来られる方も数多く、絶えず目を配らねばなりませぬからな」
つむぎに応えながら既に怪しげな男を見つけたようで、近くを見廻っていた手下の者に合図を送っていた。利通がその男を垣間見ると、何やら歩幅で近くの店の周囲を計測している様子であった。
「足抜けの算段やもしれませぬので」
利通が気を留めたのを悟って、四郎兵衛が囁いた。
華やいだ世界と表裏一体となる陰の行動を知って、利通は新吉原の奥深さにごくりと息を飲んだ。
松代屋は半籬の仲見世と呼ばれる妓楼であった。
「松代屋の。つむぎ先生がお見えになられたぞ」
四郎兵衛が先に中に入り、楼主に声を掛ける。
「これはこれは先生」
揉み手をしながら愛想笑いを浮かべた、細面のまるで狐のように狡猾そうな楼主が出て来た。
「疱瘡が流行りました折に、つむぎ先生がこの店を助けたのでございますよ。大門を跨いだ遊女達は、自らの意思で外へ出る事は適いませんからねぇ。多くの者が感染して、亡くなりました。特にこの松代屋は、火元のような有様でしたから」
楼主のあからさまな態度に怪訝な顔をする利通を察して、四郎兵衛が囁いた。
「幕府の命を受けてやって来られた先生方の中に、つむぎ先生がおられまして。重篤な者達を有無を言わさず外の世界に隔離するわ、安全面が確認出来ぬうちは店を閉鎖させるわで、それはもう廓中が未曾有の騒ぎでしたが、お陰様で廃業する店もなく今もこの新吉原は華やかでいられるのでございますよ」
そう言って四郎兵衛は口許に笑みを浮かべて、小鈴の部屋へと案内した。
「望み通りに、指名されて来た医者よ。開けて頂戴」
中に向かって声を掛けながら、つむぎと利通は口許を手拭いで覆い込んで耳を済ませた。
「どうぞ、開いています」
「入ってくんなまし」
大喀血したと言う割には歯切れの良い亀之助と、小鈴の落ち着いて通る声がした。
その声を聞くや、つむぎは襖戸を開いた。
正面に座し、凛とした顔を向ける小鈴は齢十八ぐらいであろうか。目鼻立ちの整った、小綺麗な顔をしていた。自身も労咳であると言ったとの事であったが、見た限りでは特にやつれている風でもなく、化粧をしているからなのか顔色も悪いようには見受けなかった。
そんな小鈴の腕の中に支えられるように、小鈴が用意した着物に包まれて亀之助が横たわっていた。役者というだけあって男前で、鍛えてもいるのだろう、骨格もしっかりしていた。だが、顔は土気色で幾分痩けて見える。
喀血しただろう場所は小鈴の着物で覆い隠されてはいたが、表面に血がうっすらと滲んで来ている。小鈴の脇にも、血を含んだ懐紙が何枚か置かれていた。
「大喀血は今日が初めて?」
「はい」
掠れる声で亀之助が頷いてみせる。
「亀之助さんを先に見るから、そこに寝かせて小鈴さんは下がって」
つむぎに指示されるも、小鈴はただ不安そうな表情を浮かべて亀之助を抱きかかえたままである。
「大丈夫ですよ。つむぎ先生は名医ですから」
利通が微笑んでみせる。
「お願いするでありんす」
躊躇いながらも小鈴は亀之助をその場に寝かせると、利通の後ろへ下がった。
つむぎは亀之助の前に座すと、小鈴が着物を掛けて伏せた喀血の度合いを見るべく捲りあげた。畳にはべったりと、血が染み込んでいる。
「これでよく、意識を保っていられるわね」
つむぎが眉根を寄せて、亀之助に視線を向ける。
「胸の音を聴かせて貰うわ」
つむぎは手持箱から筒状の聴診器を取り出すと、亀之助の胸に当ててその音を聴いた。
「あなたは本当に役者なのね。胸の方は悲鳴を上げているのに、さっきからゆったりとした呼吸を繰り返している」
指摘されて、亀之助は力なく微笑んだ。
「重症には変わりないから、直ぐに隔離して相応の処置をします。寺島村に屋敷があるそうね」
亀之助は小さく頷いた。
「そこで、きちんと完治するまで養生して貰うわ。勿論、舞台に立つ事は認められない」
「完治。亀之助さんは、治るんでありんすか」
小鈴が驚いて尋ねる。
「そうね。ここまで症状が進んでいると正直難しいけれど、生きようとする気概は感じるから、私はその思いに全力を注ぐわ」
「良かった」
呟く小鈴の瞳から、つっと一筋の涙が流れ落ちた。
「労咳には、わっちが先になったんでありんす。亀之助さんは、わっちから感染って」
「えっ、あなたが先に」
驚いてつむぎが振り返る。
「ごめんなさい、ちょっと胸の音を聴かせて貰うわね」
頷き屈む小鈴の胸を開いて聴診器を当てるつむぎは、瞬間小首を捻った。
「くら先生、ちょっと聴いてみて」
「はい。すみません、失礼します」
つむぎから聴診器を受け取ると、今度は利通が小鈴の胸に当てて耳を澄ませた。
「これは」
目を瞬いた。
「確かに雑音は聞こえますが、どちらかというと治りかけている過程の音ですね」
その言葉を聴いて、つむぎは難しい顔になった。
「小鈴さん、失礼を承知で聞くけれど」
「何でありんしょう」
「この環境下であなたが先に罹っていたなら、間違いなく亀之助さんより症状が進んでいる筈なんだけれど」
「それは亀之助さんが私の症状に気付いて、自分が揚代を払って登楼している間は、何もせずただ良いものを食べて休んでいろと」
小鈴は廓言葉を出さず、真剣な眼差しでつむぎ達と向き合って告げた。
合点がいったというように、つむぎは頷いてみせた。
「という事は、ほぼ毎日通っていたのかしら。新吉原は昼見世もあるわよね」
「揚代の他に食事代。安くはないですよ。それで自身が感染しても、ここへ通ってくる為に芝居を続けて稼いでいた訳ですか」
「男気は認めるけれど、本末転倒。死んだら何もかもそこで御終い。小鈴さんも救われないわ」
つむぎは厳しい視線を亀之助に向けた。
「当面は逢えなくなるから、確認だけさせてね。二人揃って完治した暁には、身請けの意思はあるのかしら」
亀之助も小鈴も大きく目を見開いて、互いを見合った。
「命を張って通い続けていたのだから、そういう思いがあるのかしらと」
「はい」
亀之助が頷き、小鈴が口許に手を当ててまた涙を流した。
「ならば、私の言う事はこれからきちんと守って養生して。一つでも守れなければ、命の保証は出来ない。小鈴さんとは、二度と逢えなくなるわよ」
きっぱり断言されて、亀之助は「分かりました」と大きく頷いた。
それから直ぐに亀之助は、四郎兵衛が用意した猪牙舟に乗せられて、大川を挟んだ対岸の寺島村まで運ばれて行った。
つむぎは亀之助の血で汚れた畳と着物の焼却と、部屋の換気を楼主に言い付け、小鈴も一時隔離をしたい旨を伝えた。だが稼ぎを失うと渋り、何だかんだと理屈を捏ねて首を縦に振らない。
「疱瘡の折にも言ったけれど、隔離をさせないという事は、あなたを初めとして他の皆に感染しても構わないと捉えて良いのかしら」
つむぎが楼主に詰め寄る。
「私は、きちんと忠告しましたからね。これでまた、この松代屋が火元となって労咳が蔓延でもしたら、責任はお一人で負って頂きますよ」
「蔓延だなんて脅かさないで下さいよ」
途端に弱気になって、楼主はぎこちない笑みを浮かべた。
「私は医者として、あり得ない事は語らないわ」
「ですが今は、他の店の手前もあります。店が引ける明朝まで待って頂けないですか」
「あなた、命に関わる重篤な者が現れても、そんな悠長な事を言うつもりなの」
「先生」
更に楼主に詰め寄るのを、小鈴が袖を引いて首を振った。
「ここには暗黙の掟がありんす。わっちは重篤ではありんせん」
何かに怯えているのか、小鈴は廓言葉に戻ってそう言った。つむぎは袖を通して、小鈴の微かな震えを感じ取っていた。
「分かったわ、待ちましょう。その代わり、通気の良い部屋に変えて休ませて頂戴。朝までは私が付き添うわ。それと、他の皆も今日は休ませて」
「えぇっ」
「休ませて」
今一度凄むと、楼主は「承知しました」と項垂れながら部屋を出て行った。
「さっきはどうしてあんな事を言ったの」
部屋を移り窓を開け放しながら、つむぎは小鈴を振り返った。
「私は八つで女衒に三両足らずで買い取られて、禿を経て水揚げされたのが十六。それまでの飲み食いやら衣装代やらが借金として背負わされ、今では五十両近くに膨れ上がって。普通の十年奉公では返せません」
「そんな仕組みなのかここは」
利通が眉を顰める。
「それに、給金というものはありませんから、休めば休んだ分の食事代や衣装代が借金に上乗せされます。部屋持ちの私には禿が付きますので、その子の分も私がみるんです」
「それは酷い。上方にも遊郭はありますが、芸妓が多い花街です。ここは幕府公許ですよね。こんな非道な事がまかり通っていて良いのですか」
「大門を跨いだ私達は、水揚げされて男を知るとただ夢を見ます。無事年季を明けるか、身請けされるか」
「でも、話を聞く限りでは相当に難しい環境ですよね」
その時、外で拍子木が四回打ち鳴らされた。
「大門が閉まる時間です」
小鈴が窓の外に視線を向ける。
「門は閉まりますが、脇の戸からは出入りが自由となっているようで、客の入り次第では引け四つまで灯りが落ちぬ妓楼もあります」
小鈴は外を見回した。今日は引けが早い様子で、道向こうの妓楼は灯りを落とし始めている。黒闇が生まれたその店先に、どさりと音がして菰が投げ出された。何だろうかと、利通が凝視する。すると、隣の妓楼からも菰が投げ出された。
「あれは今日亡くなった遊女達を、菰巻きにして運び出すんです。皆が皆、病で直ぐに養生出来る訳ではありませんから。狭く汚い部屋に寝転がされたまま、死んで行くんです。毎日、何処彼処で見掛ける光景です」
「毎日」
淡々と語る小鈴に、利通は眉根を寄せた。
「黴毒、望まぬ子の堕胎失敗、流行病、折檻、相対死……。廓の女達の寿命は、二十三にも満たないんです」
「私が今、二十四だ。私ほども生きられないのか」
絶句する。
「あぁして死しても、今まで稼いだお金が親元に届く訳でもなし。はした金の供養代で、近くの寺に運ばれると聞きます」
話している間に、大八車がやって来て無造作に菰を積み上げ始めた。それはあまりに雑で、死しているとはいえ、これが人間に対する扱いなのかと利通は吐き気を覚えた。
「人は皆、女の人の胎内から生を成します。たとえ公方様でも、母という女の人が存在しなければ、江戸城で人を束ねる事なんて出来やしないんですよ。そんな大切な女の人達を公許の名で縛り付けて、この仕打ちはあんまりじゃないですか。止めてきます」
憤慨した利通は、そのまま外に飛び出して行こうとした。
「ここの掟は皆、理解しています」
小鈴が声を上げ、利通は足を止めた。
「その上で家族の為、反対に酷い家族から逃げて次の夢を描く為、思い思い心に秘めて生活しているんです」
小鈴は居住まいを正して利通を見つめた。
「夢さなかで散りゆくとしても、年季の明けぬ身内を引き取るという事は稀です。あんな形でも、一応は寺で供養して貰えるんです。生きた証は残るんです。だからこのまま見送って欲しいでありんす」
小鈴は遊女の顔になって、利通に頭を下げた。
利通は天を仰いで大きな息を吐くと、窓の方を向いて手を合わせた。大八車に乗せられた菰の骸が、ゆっくりと大門の外へと出て行った。
翌朝。登楼して一夜を過ごした男達が後朝の別れを迎えている頃、つむぎは楼主を掴まえて怒声を浴びせていた。
「そちらの寮が使えないとはどういう事かしら」
「だから。そこは禿や新造の教育も行う場で、小鈴一人だけに使わせるというのは無理だと言っているんです」
「だったら直ぐに、一人で養生させられる別の場所を用意して頂戴」
「直ぐにだって」
つむぎの言葉に、楼主が強い嫌悪感を見せた。
「お言葉ですが先生。それなりの稼ぎのある花魁ほどの者なら、こちらも直ぐに用意はしますがね。小鈴はそこまでの女ではありませんよ。それでも、費用一切を支払えると言うなら探しますが、そこんとこはどうなんです」
今度は 楼主が言葉を荒らげた。
「前例を作れば、後に続けなきゃならなくなる。養生で店は休む。その間の費用はこちら持ちでは、店が潰れる。何も養生するなとは言いませんよ。ただ、商いです。立場を踏まえない一人勝手な行動は、他の者達の手前、止めて頂きたい」
そう強く言って、つむぎを睨み返した。
「駄目だったんですか」
むすりとした顔で二階の小鈴の部屋に戻って来たつむぎに、利通が訊いた。
「見合った場所がない事が分かっただけ」
つむぎは、楼主が養生の場を提供しなかったとは言わなかった。
「場所は、私が見つけるわ。それまではこの部屋で、養生していて欲しいの」
「何日ぐらいでしょう」
尋ねる小鈴の顔に、不安の色が見えた。
「そうね、四日……いいえ、三日頂戴。治りかけと言っても、人に感染しないとは言い切れないから」
そう言って、手持箱を引き寄せる。
「その間は、私があなたの客になるわ」
「えっ」
つむぎは箱の最下段を開くと中から三両取り出し、小鈴の手をとってその掌に乗せた。
「つむぎ先生、どこからそのお金」
手持箱から普通に大金が出て来て、利通は驚いて声をあげた。
「あぁ、これ。ほら、くら先生が百味箪笥にやたら高価な普段使わない薬が並んでいるって言うから、少し売ってみたの。本当に結構なお金になるものなのね」
あっけらかんとしているつむぎに不安を抱いた利通は、つむぎの手持箱を自身の方に向けて引き出しを開けた。その目に、数枚の小判が重なっているのが見えた。
「つむぎ先生、物騒過ぎます」
二人のやりとりを見て、小鈴が初めて顔を綻ばせて笑った。
「外の世界は、楽しそうですね」
「あなたも、何れは分かる世界よ。三日目にまた来ます。それまでは、さっきのお金で客をとらないで。この薬を飲んで大人しく養生していて」
「はい」
渡された処方藥を胸に抱いて、小鈴は即答した。
亀之助の屋敷は、寺島村の白鬚神社と近くにあった。浅草の今戸から白鬚の渡しに出て舟に乗れば直ぐである。この頃は未だ大川橋(吾妻橋)が出来ておらず、陸路だと両国橋まで戻らないとならない。
つむぎと別れて一人寺島村に向かった利通が、舟を降りると、屋敷は直ぐに確認出来た。千坪ほどの広さがあり、周囲は農村に囲まれていて、喧騒とは無縁な風情のある場所である。養生するにはもってこいの場所だ。
亀之助は四方開け放たれた大部屋の中央に、蒲団を敷いて横になっていた。卵や納豆、白米ではなく玄米。うなぎに甘酒。滋養のあるものをとにかく食べて、屋敷内を歩く程度の運動はしてゆっくりと休む事に努めるようにと、つむぎに言い渡されている。日中は、有吉座の者が身の回りの世話をしにやって来ていた。
「喀血もそうですが、体力の消耗……特に脱水は命を縮めます。その事には重々気を付けて下さい」
「はい」
「それから、これも滋養には良い薬ですので煎じて飲んで下さい」
手持箱から朝鮮人参を取り出すと、蒲団の脇に置いた。
「朝鮮人参ですか。これは見事な。ですがこれは、どうか小鈴の方に使ってやって下さい」
亀之助が頭を下げる。
「あぁ、大丈夫ですよ。小鈴さんには、ちゃんと渡してありますから」
「では、そのお代は私に請求下さい」
どうやら亀之助は、高価な朝鮮人参の代金を心配していたらしい。
「それも心配は要りません。つむぎ先生は基本的に、診察料等を頂きませんから」
「えっ、それでどうやってこんな高価な薬を」
「支援して下さるお身内がいるそうなんです」
驚く亀之助に説明した。
「そうですか。では、頂戴いたします」
亀之助は朝鮮人参を枕許の方へ移動させた。
「小鈴は、どうなりましたでしょうか」
心配そうな表情を見せる。
「今、養生出来る場所を探しているところです。店の寮は、手狭なので」
「ここへ呼ぶ事は適いませんか」
「それは」
利通は首を振った。
「小鈴さんを、余程思われているのですね」
「はい。ですが、初めは自責の念から通い始めたんです」
利通は、亀之助に視線を向けた。
「先生は、村八分をご存知ですか」
「言葉だけは。実際に見た事はありません」
応える利通に、亀之助が頷いてみせる。
「小鈴と私は同郷、大和の生まれなんです。それも小さな川を隔てた対岸でした。ですがその川は、決して越えてはならぬ境界線。小鈴は、村八分に遭った家の生まれなんです」
「村八分の家」
言葉を噛み締めた。
「どんな経緯かは知りません。ですが私達の住まう村の方へは、決して入ってはならぬと言い渡されていました。ですから、必要な物を揃えたい時や病人が出た時には、裏山を越えて隣の村に行き、高い金を支払わねばならぬ生活です。昼間は川に近づくと投石されますから、夜になってから洗濯したり川魚を獲ったりする姿を垣間見ました。私より一回り幼い小鈴が、粗末な着物で冬は震えながらそうした日々を過ごすのを見ていました」
亀之助は、そう言って視線を落とした。
「でも、助ける事は許されません。それが村八分です。そして春の田植えが始まる頃、一人の男が川を越えて、その夜遅くに小鈴を連れて出て行ったのを見ました。それが女衒だったんです」
「幼い頃から交流を断たれていた訳ですから名前も分からないだろうに、よく見つけられましたね」
利通は疑問を投げかけた。
「私も色々とありまして。三男でしたから身を立てるべく地回り芝居に身を置いて。出てきた江戸で今の有吉座に引き抜かれました」
「そうでしたか」
「先日破門を喰らった兄弟子が、新吉原で揚げ屋と諍いを起こしまして。その件を収めるべく私が店との手打ちに向かいました。その時に、あの女衒が松代屋から出て来るのを見たのです」
亀之助は一度咳き込み、話を止めようとする利通に大丈夫だというように微笑んでみせた。そして一つ息を吐くと、また話を始めた。
「十年以上の月日が流れて、その女衒も老け込んでおりましたが、小鈴を連れて行った男で間違いないと確信しました。それで、芝居のない別の日の昼見世に松代屋に訪れてみたのです」
「直ぐに分かったのですか」
亀之助が首を振る。
「私は小鈴をただ月明かりを通して垣間見ていただけで、仕草は覚えているものの、顔は正直分かりません。だから半籬越しに叫んだんです。国と村の名を言って、同郷の者は居ないかと」
「それで小鈴さんを見つけたんですね」
亀之助は頷いた。
「三味線がぴたりと止んで、二列目の右端に座っていた小鈴が私に視線を向けました。見世番にあの者をと告げて、店に入り二階へ上がったのが、小鈴との初会。そこで色々と村の事を話して、当時の事を詫びたんです」
「そうでしたか。今も、小鈴さんの家は村八分のままなのでしょうか」
利通の言葉に、亀之助の顔が曇った。
「小鈴には話してはいませんが、家はもうありません。小鈴が売られて一年もせずに、一家心中しましてね。村の大人達が家を焼き払いました」
炎が上がる家を無機質な顔で見つめる大人達の姿を思い浮かべて、利通はぞくりとして言葉が出なかった。
「小鈴という名は松代屋がつけたもので、本当の名は知りません。小鈴も教えようとはしないので、小鈴自身も村への想いは捨てているようです。だから、村の事はこれからも伝えません」
亀之助はそう言って優しげに微笑んだ。
「初会から、小鈴は奇妙な咳をしていました。それが労咳と気付くのに然程日は要りませんでした」
「だから、小鈴さんを休ませるべく登楼を続けたのですね」
「借金を嫌がって、自らは休もうとしませんでしたからね」
亀之助は一つ嘆息をする。
「昔は手を差し伸べる事も出来なかった小鈴と今は手を取り合う事が出来る。助けるつもりが、いつしか外のしがらみ離れ、安らげて貰う己がいて、それが愛おしいという思いになって直ぐに身請けしようとも考えました」
そう言って広大な敷地を見渡した。
「ですが、私は有吉座の看板役者。病を振りまかれたら困ると座元から強く反対されて。それで舞台に上がらない時には、登楼していました。そんな時に今度は自身の発症です」
「本来労咳は潜伏期間があります。身体が健康なら病気を跳ね除ける力を備えているので、発症する事もなく治癒する場合もあります。それが短期間で発症して重症化したのは、かなり身体に負担をかけた無茶な生活をしたからですよ」
分かっていますというように、亀之助は頷いた。
「それにしても、また川に阻まれました」
亀之助は、大川の方角に視線を向ける。対岸には新吉原に通じる道がある。
「小鈴は今も昔もずっと、狭い場所で暮らしている。早く完治して、広い風景を見せてやりたい。ここは、もってこいの場所でしょう」
「その為には、しっかり養生しましょう。小鈴さんの方は、つむぎ先生が守りますから」
「お願いします」
亀之助は深く頭を下げた。
陽が落ちて利通が診療所に戻ると、つむぎと平助が埃を被った行李を引っ張り出して来て、何やら書物を捲っていた。
「ただいま、戻りました」
「やっと戻ったか。はい、これ頼むな」
術着を脱いで壁に掛けて振り返ると、平助が近づいて来て、数冊の書物を押し付けた。
「何の書物だ」
「今までつむぎ先生が書き留めてきた診察録の纏めだ。この中から、労咳患者で完治した事例を選び出しているところだ」
「分かった」
「あぁ、くら先生お帰りなさい。手伝ってくれる前に、夕餉を済ませちゃって。奥に取ってあるから」
ろうそくの灯りを増幅させたからくり筒で、室内は隅々まで昼間のように一定に明るく、つむぎは行李の横に座して書物を捲っていた。
「はい」
頷き、奥で夕餉を済ませて戻って来ると、壁際で平助がうつらうつらしていた。
「そのまま寝かせて上げて。昼間、ここがてんてこ舞いして、疲れ切っているだろうから」
平助に声を掛けようとする利通に、つむぎは小声で首を振った。利通は頷くと、平助から渡されていた書物を捲り始めた。
「結構、自然治癒をしている人はいるものですね」
書物に目を通しながら、感心したように利通は話した。
「そうね。でもやっぱり、裕福な暮らしをしている人達だわ。常に新しい空気を入れ換えられる環境、滋養がある食事と安静。このどれが欠けても駄目」
「空気の循環に関しては、毅さんのからくりが役に立つと思います。ですが、食事や安静といった他の病気に対する抵抗力を付ける事は、小鈴さんに限らず新吉原の囲いのうちで生活する女の人達には、かなり難しい事でしょう」
「そうね。楼主にも色々と言われたわ。でも、私は匙を投げないわよ」
つむぎが語気を強める。
「江戸城竜ノ口評定所前に、庶民達の訴えを聴く目安箱っていうのが設けられたそうじゃない」
「そのようですね」
「朝になったら、この現状を訴えて来るわ」
「えっ」
驚く利通を余所に、つむぎは本気の形相であった。
「絶対にみんな救うわよ。医者はね、命だけじゃなく、その先の夢も紡ぐべきもの」
「はい」
やはり医者としてのつむぎの考え方は立派で、この確固たる意志が、雲の上の存在である筈の幕府をも本当に突き動かしてしまうのではないかと、利通は思った。
朝になるとつむぎは、やって来た毅と共に竜ノ口評定所前に出掛けて来ると言い、陽が傾く頃には老中戸田山城守の裁断で、今回の件は上手く運べそうだとほくほく顔で戻って来た。
「ご老中のご裁断」
「えぇそう。小鈴さんの養生場所は、新吉原からも近い待乳山。養生中の借金は背負わせない」
「目安箱とは、そんなにも早く私達の意見が反映されるものなのですか」
下知状を見せられ、利通も平助も目を見張った。
「そんな早い訳がないでしょう」
術着を脱ぎながら、つむぎが笑う。
「じゃあ、これはどうやって」
「聞きたいか」
視線を向ける毅の目が引きつっている。嫌な予感しかしない。
「正四つに、ご老中職の登城太鼓が鳴らされるだろう」
「まさか、直訴されたのですか」
平助の顔が蒼褪めていく。その問いに対してつむぎは、ただふふっと笑うだけであった。
「よくご無事で」
「姐御が言っている事は正論だからな。いつものあの迫力で、いきなり登城を足止めされて捲し立てられてみろ」
毅がげっそりとした顔を向けると、「お疲れ様でした」と利通が頭を下げた。そんな二人の姿を見て、どうやら騙せたようだと毅はつむぎに目配せをした。何やら、この話には二人に気づかれたくない裏があるらしい。
「さぁ。明日は忙しいわよ。毅はこの話を亀之助さんにして来て頂戴。あぁそうそう。私の部屋の机上に、新しく処方した薬が置いてあるからそれも持って行って」
「分かった。じゃあ、姐御の部屋に立ち入らせて貰うぜ」
毅は奥に入って行く。
「さて、夕餉の支度をしましょう。たすく先生手伝って。くら先生は診察室の後片付けをお願い」
「分かりました」
頷き、利通が診察室に向かうべく廊下に出ると、少し先に小さな守り袋のようなものが落ちているのに気づいた。先に出て行った毅のものだろうかと、近付いて手を伸ばそうとして目を見張った。守り袋は相当に年季が入っているようで表面は薄汚れていたが、金糸で紋が縫われていた。
「葵」
再確認しようと目を見開いた刹那、走り来た毅がさっと拾い上げて懐に入れ込んだ。
「くら先生、お疲れ様。今日は引き上げるから、姐御に宜しく伝えておいてくれ」
何事もなかったかのように利通の肩を叩くと、毅は急ぎ足で出て行ってしまった。
「気のせいだよな」
葵は徳川家の家紋である。毅と結びつく筈もないと、利通は深く考える事もなく診察室へと向かった。
朝から霧雨が降っていた。気温もかなり下がって、体調が優れぬと不調を訴える者達が押し掛け、診療所は三人がかりで大忙しであった。昼を前に漸く落ち着き、後は平助に任せて約束より一日早いが新吉原へ向かおうと、つむぎと利通は支度を始めた。
「今から向かうと、昼見世の最中ですね」
「問題ないわ。小鈴さんは店に出さないように言ってあるし、後は楼主にこれを突き付けて、小鈴さんを待乳山の養生所へ移すだけだから」
下知状を懐に入れると「行きましょう」と、つむぎは手持箱を抱えた。
新吉原の昼見世は夜ほどの賑やかさはないが、それでも大門を幾人もの男達が出入りしていた。
つむぎと並んで大門を跨いだ利通は、足早にすっと脇をすり抜けて行く、編笠を目深に被った自身と同じぐらいの身長の武家の男に気付いて、はっと立ち止まると振り返った。
「どうかしたの」
つむぎも立ち止まり、小さくなっていく武家の男の後ろ姿に視線を向けた。
「あ、いえ。兄に感じが似ていたものですから。でも、こんな場所に居る筈がありません。すみません、急ぎましょう」
利通は再び前を向くと、会所の方へつむぎと共に歩き出した。
「ほぅ。これはまた、松代屋さんが地団駄を踏みそうですな」
つむぎが差し出した松代屋への下知状に目を通して、四郎兵衛は苦笑した。
「公方様公許を得ながら、下手をすれば労咳の巣窟として不特定多数の感染・蔓延を起こしかねないのだから当然の処置。前回同様に、取り潰されないだけましだと思って頂かないと」
「はははは。つむぎ先生には敵いませんな。こちらに関しては、万事私共が上手く運ばせて頂きます。では、参りましょう」
下知状を折り畳み、「預からせて頂きます」と懐に挟むと、四郎兵衛は会所を出て、松代屋へ向けて歩き出した。
その時、近くの揚屋から走り出て来る禿の姿を見て、途端つむぎは眉を吊り上げた。
「そこの禿、止まりなさい」
急に呼び止められて、禿はびくりとして足を止めると声の主を振り返った。
「先生」
その相手がつむぎだと分かり身体を硬直させる禿に、つむぎが走り寄る。
「あなた確か、小鈴さん付きの子だったわよね。名はさくら」
「ち、違うでありんす」
手に持っていた小さな紙袋を、つむぎに見られまいと胸に抱きながら顔を背けた。
「それは何かしら」
強い口調で訊ねると身体を強張らせ、その拍子に紙袋が地面に落ちた。
「あっ」
はっと下を向いた時には、その紙袋をつむぎが拾いあげて中を確認していた。
「細刻み」
それは煙菅に入れる刻み煙草の葉であった。
「これをどうするのかしら」
さくらに視線を向けると、唇をきゅっと結んで何も話すまいと俯いた。
「まさか、客の相手をしていると言うの」
眉を顰めて呟いたつむぎは、松代屋に向けて走り出した。
「つむぎ先生! すみません四郎兵衛さん、この子を連れて行きますから、先生をお願いします」
「分かりました」
つむぎの剣幕にすっかり萎縮してしまったさくらを支えながら利通が告げ、四郎兵衛は頷くやつむぎを追って走り出した。
松代屋の半籬に並んでいた遊女の一人が、物凄い剣幕で走り来るつむぎに気付いて、慌てて座を立つと奥へと走った。
「つむぎ先生がいらっしゃいんした」
「な、何だって。明日の予定だろう」
外を指差して叫ぶ遊女の報告に慌てふためく楼主の耳に、
「楼主、今直ぐに出て来なさい」
つむぎの怒声が響いた。
「小鈴に知らせなさい」
楼主は二階を見上げて小声で遊女に指示を出すと、小走りに表に向かおうとして「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
「まさかと思うけれど、小鈴さんに客をとらせたりしていないわよね」
既につむぎが上がり込んで来ていて、目前で凄まれた。
「いや、あの」
ちらりと二階を振り仰ぎながら、楼主は困惑の表情を見せる。
「つむぎ先生、無粋は許されません」
追い付き、二階に駆け上がりそうな勢いのつむぎの腕を掴みながら、四郎兵衛が引き止める。
「小鈴さんはまだ、完治しているかどうか分からないって言ったでしょう。万が一、相手が感染したら、あなた達は命の保証をして上げられるの」
啖呵を切られ、四郎兵衛は思わずつむぎから手を離してしまった。直ぐさまつむぎは身を翻すと、二階へと駆け上がって行く。
「四郎兵衛さん、つむぎ先生は」
「誰だてめぇは」
さくらを連れてやって来た利通は、二階で男の怒鳴り声がするのを耳にして、四郎兵衛と顔を見合わせると、慌てて二階へと駆け上がった。
「私は医者。あなたは今、労咳の疑いがある子を相手にしているのよ」
「ろ、労咳だって」
つむぎに踏み込まれ、慌てて側に脱ぎ散らかしていた着物を纏った町人風の男は、驚いたように小鈴を見た。
「おい、本当なのか」
「もう治ったでありんす」
「誰もそんな保証はしていないでしょう」
しなを作ってみせる小鈴に、つむぎは容赦なく言葉を浴びせる。
「つむぎ先生」
「くら先生。この男の人を連れ出して。先ずは身体を清めさせて労咳の説明と、住まいを聞いておいて」
部屋の外で声を掛ける利通に振り向きもしないで、つむぎは指示を与えた。
「俺は大丈夫なのか。感染って、まさか死んだりはしない……」
「騒がない。外にいるくら先生が万事説明するから、早くここから出て行く」
言葉を遮ってびしっと部屋の外を指差すつむぎに何度も頷いてみせると、男は部屋を飛び出して行った。
「さっさと着物を身につけなさい」
小鈴を見下ろして命令するつむぎに、小鈴は耳を貸さずに顔を背けている。
「そう。ならそのままでもいいわ。何で約束を破ったの」
問い掛けるが、小鈴は口を開かない。その代わり、小さく咳き込んだ。その様子を見て、つむぎが眉をぴくりとさせる。
「まさか、薬も飲んでいないの」
その問い掛けにも小鈴は答えない。
「そんなに死にたいの」
「仕方がないんでありんす」
腕を掴むつむぎを跳ね除けて、小鈴が叫んだ。
「どういう事。私が置いていったお金では足りなかったって事」
「そうでありんす」
真っ直ぐに自分を見下ろすつむぎを、小鈴は怯まずに見返す。
女の意地と意地がぶつかり合う。
「揚代は二分でありんすが、わっちには禿の付き人がおりんす」
「さくらちゃんよね。細刻みを買いに行かせたでしょう。そこで会ったから飛んで来たのよ」
つむぎは袋を小鈴の前にぽんと投げた。
「先日も申しましたが、わっちはさくらの給金も見ないとなりんせん。休んでいても、衣装代に食事代は加算されるでありんす」
言い捨て着物を纏うと、小鈴は立ち上がるやつむぎの脇を抜けて出て行こうとする。
「どこに行く気」
「次の客を取りんす」
「感染させる気なの」
「男先生が労咳とは少し違う胸音だと言いんした。わっちはもう治って」
「じゃあ、何でさっき咳き込んだの。完治していない証拠でしょう」
引き止めようとするつむぎを、小鈴が突き放す。
「言う事を聞いて。先ずは薬を飲みなさい」
「離して」
つむぎと小鈴が取っ組み合いをはじめ、
「つむぎ先生」
「入って来ないで」
割って入ろうとする四郎兵衛も足止めされて、状況を見守る次第。
「どうなりましたか。男の人は今、風呂で身体を清めて貰っていますが」
戻って来た利通が、佇む四郎兵衛の横から中を覗く。
その時びりっと音がして、小鈴が揉み合いながらつむぎの左袖の辺りを剥ぎ取った。顕になったつむぎの左肩に、大きな蚯蚓腫れの傷痕が見えた。小鈴を初め利通等がはっとその傷痕に目を盗られた刹那、つむぎは手持箱から処方薬を一包み取り出し、横に括り付けてある竹筒の中の水と共に口に含むと、小鈴の腕を引き寄せるや、口移しで薬を含ませた。
「んんっ」
「つむぎ先生」
小鈴が喉元を鳴らして薬を飲み干しながら、どんとつむぎを突き放す。
「血迷いんしたか」
小鈴は口許を手で押さえながら、驚きの表情を見せる。
「あなたが思う通りなら、私には感染らないんでしょう。違う」
怯む事なく体当たりで診療に挑むつむぎを目の当たりにして、小鈴は初めて動揺を見せた。
「何を一人で諦め足掻いているの。亀之助さんの思いをも無駄にするつもり」
顔をくしゃりとさせ、小鈴が首を横に振る。
「だったら、私の言う事をちゃんと聞きなさい。私は決して匙は投げない。皆を助けたいの。良いわね」
「でも……亀之助さんに、これ以上の負担はかけられんせん。わっちのせいで重篤になって、舞台にも立てず座にも迷惑をかけてしまいんした。でありんすから、わっちの借金は、自身で埋めていきんす」
小鈴の思いは真剣だ。
「亀之助さんに悪いと思っているのなら、先ずは身体をしっかり治して、身請けされて、それからじっくりと返していきなさい」
優しく噛み砕くように、しっかりと小鈴の目を見つめてつむぎは話しかける。
「あなた達の事は、私が必ず守るから。信じてちゃんと養生して」
小鈴は一瞬目を見開き、つむぎの熱い思いを感じ取ると、漸く「はい」と頷いて頭を下げた。
やっと落ち着いた小鈴を見て部屋を出ると、つむぎは直ぐに楼主の元へ向かい、四郎兵衛に託した下知状の話を始めた。
「こんな事までして、本当に小鈴は完治するんでしょうね」
既に下知状に目を通していた楼主は勿論文句を言ったが、お上を敵に廻すつもりはないので、天を仰ぎながら了承した。
「小鈴さんの穴埋めと称して、他の子達に阿漕な真似を働かないよう、しっかりと見張っていて頂戴」
「心得ました」
つむぎに言われて四郎兵衛は、目を光らせて松代屋を振り仰いだ。
待乳山は、後に歌川広重が『真土山之図』という錦絵を残すほどの江戸名所で、小高い丘ながら富士山や筑波山を一望する事が出来、人々に愛でられる場所であった。
つむぎが用意した養生所は、八畳ほどの四方開け放しが出来る風通しの良い部屋で、四郎兵衛の配下の者が見張りとして昼夜二人体制で付くものの、中にいる限りは自由な時を過ごせた。食事も滋養のあるものが運ばれ、身体は見る見る健康的になって来た。
だが小鈴はいつ訪れても無表情に、ただずっと部屋の西窓から富士の山を見つめているだけであった。
「今日も富士の山が綺麗に見えますね」
「え」
診察にやって来た利通に声を掛けられて、小鈴は我に返った。
「この敷地内でしたら、もっと自由に過ごして貰って構わないんですよ。身体を動かす事も薬ですから」
言われて、小鈴は薄笑いを浮かべた。待乳山に来てから、小鈴は誰に対しても廓言葉を封印している。身も心も休ませる為には、その方が良いと自身で判断しての事だった。
「くら先生は、自由な時間が出来た時には、どのように過ごされているのですか」
「そうですね。医療に関する書物を探しに出掛けたり、毅さんが芝居のからくりを作っている伝手もあって、芝居小屋に行ってみたりしていますよ」
小鈴の脈を診ながら、利通は応えた。
「芝居。どんなものなのでしょう。亀之助さんが見得の切り方を教えてはくれましたが、如何せん実際に観た事は一度もないので」
小鈴が苦笑する。
「私の過去は、亀之助さんが先生に話して聞かせたと文を頂きました。昔の暮らしから今の廓に入るまで、私が唯一じっと見て憶えているのは、あの富士の山だけ。何て美しく気高いんだろうって、そう思いました」
そう言ってまた、富士の山の方へ視線を向けた。
「同じですね」
利通が相槌を打つ。
「私は上方を追われて江戸に出て来たのです。日本橋でつむぎ先生に声を掛けられるまでの記憶が曖昧で。でも、富士の山を佇んで見上げた記憶だけは鮮明に残っているんです」
利通も富士の山に視線を向けた。
「不思議ですね。富士のお山には、きっと人を惹きつける力があるのでしょうね」
「はい」
利通は頷いた。
「上方と言うと、私の故郷の大和からも近いのですよね。どんな所なのでしょうか」
「そうですね」
利通は己が育った町の話をした。海があり、商人達が多く活気に溢れている事。市が立ち、各地から人々が集まって来る事。
目を伏せて黙って聞き入る小鈴であったが、利通が話し終えるとふっと目を開け、
「想像してみたけれど、輪郭すら私には作れない」
悲しげに微笑み、利通は想像以上に小鈴の育った環境が狭いことに驚いた。
「くら先生。労咳が完治すれば、私はまた店に戻るのですよね」
「亀之助さんも少しずつ状態が良くなって来ていますから、思っていたよりも早く、身請けされて外に出る日も近いですよ」
小鈴は、再びうっすらと笑みを浮かべた。
診療所に戻った利通は、小鈴の様子をつむぎに伝えた。
「私の時もそうです。話し掛ければ何かしらの応えは返してくれますが、大抵は部屋の片隅から窓の外を見つめているだけです」
利通と平助に言われて、つむぎは眉間に皺を寄せた。
「この間、毅が選んで届けに行った本は読んだりしていないの」
「全く。教養として禿の時から色々と覚えさせられたそうですが、如何せん外の世界をほとんど知らずに育って来ましたから、想像する事が難しいらしく疲れてしまうのだそうです」
「困ったわね。これじゃあ、気鬱の病を発症させそうだわ」
「亀之助さんと、少しの間でも共に養生させてあげる事は、どうしても駄目なんですか」
平助が尋ねる。
「そうでなくても、特別な計らいをしているでしょう。小鈴さん付きのさくらちゃんが、それで意地悪をされているらしくて」
「やっかみですか」
利通も嘆息する。
「それに、さすがにそこまでは、お上の方もお許しにはならないでしょう」
利通はうーんと唸った。
その時、編笠を取りながら手に風呂敷包みを抱えた一人の武士が入って来た。歳は四十前後で切れ長の怜悧な瞳をしていた。
「あら珍しい」
男を見たつむぎは見知っている風な感じであったが、利通と平助は誰であろうかと男を見やった。
「本日はどんな御用向きでしょうか、大岡越前守様」
「大岡越前守……様って、南町のお奉行様!」
平助が叫んで、慌てて平伏する。
「えっ、お奉行様」
利通の声が裏返る。
「たすく先生立ちなさい。何も悪い事はしていないでしょう」
「あっ、はい」
つむぎに一喝され顔を上げると、大岡を見つめながら恐る恐る立ち上がった。
「突然の訪問失礼致す。実はこの半月ほど、巷で奇妙な死を迎える若者達が増えているのだ」
「奇妙な死?」
「これなのだが」
風呂敷を足元に置いて開くと、数枚の検分書と記された紙をつむぎに差し出した。
「それを読み、医者の立場として病死なのか否かを判断して頂きたい」
「何故、私に白羽を」
尋ねながらも検分書に目を走らせるつむぎがぴたりと視線を止める。
「くら先生、ちょっと」
利通に声を掛けると、三枚を抜き取り手渡した。
「拝見します」
受け取り目を通した利通の目が硬直する。
「おい、大丈夫か」
思わずよろめくのを、平助が慌てて支えた。
「この症例は、私の時と同じものです」
風邪の始まりと診断された夜の突然死。
「商家の女が二人。武家の次男坊が一人」
「こっちも軽い腹下しだったり、健康そのものだった若い子達が突然死してるわ。それも京橋から品川にかけて。確かに変ね」
つむぎが眉を潜めて呟く。
「目安箱に最近江戸の町で奇妙な死が頻発しているとの投書があり、今月は南町が月番なので色々と調べさせた結果が、この状況だった次第。ところで、其処もとはこの症例を存じているようだが」
大岡は利通に厳しい目を向けた。
「はい、実は」
上方での出来事を語った。
利通の話に、大岡はふぅむと唸る。
「しかし、江戸と上方では距離があり過ぎる。今回の件と関連性は薄いだろうが、憶えておこう。それで先生。この所見から、どんな可能性が考えられるだろうか」
問われても、つむぎはただ大岡を見つめて口を開こうとはしない。
「自死」
応えたのは利通だった。
「この診察から、突然の病気の悪化は考えられません。そうなると、何らかの毒を自ら含んだ可能性が考えられます。ですが、毒の知識がなければ出来ぬ話です。加減を間違えれば、生き永らえながら長く苦しみもがく事になります」
「糸を引く者が居ると」
大岡の眼光が鋭さを増した。
「それも、相当に知識があります」
平助がつむぎから受け取った診察録を見て頷いてみせる。
「私は薬の調合を任されますから分かるんです。年齢や性別に身体付きで、同じ薬でもその量を調整します。この診察録を見た限りでは、亡くなる際の症状はほぼ等しく、同一の毒を含んだと思います。けれど年齢や性別、身体付きにばらつきがあるんです」
つむぎが今一度診察録を見直して確信する。
「こうした知識に明るいのは、薬種問屋や医者……後は」
平助は唸った。
「あい分かった。その辺りに目を光らせるとしよう。万が一、次に同様の事が起きた際には、検死を頼みたい。では、今日は失礼致す」
大岡は黙礼すると、編笠を被り足早に診療所を出て行った。
その夜。利通は、眠れずにいた。己が風邪と診断した多江の突然死。それと同じ症例がこの江戸で起きている。大岡は江戸と上方では関連性は薄いと言っていたが、突然死が頻発している場所は、久世藩の関わりある地である。下屋敷は品川にあり、中屋敷は京橋界隈にあった。
利通の脳裏に、先日新吉原ですれ違った武家の男の姿が過った。男は兄の雰囲気に似ていた。大名は参勤交代を課せられる。藩医として随行する事もあろう。江戸に来ている可能性は否めない。だがしかし、男が兄だとしても、一人新吉原の昼見世にやって来ている理由が分からない。
「兄上が多江さんの検死をした」
利通はただ穏便に事後処理を済ませたと聴かされただけで、藩を追われた。当時は己の失態だと悔いるばかりで、自死の可能性など疑いもしなかった。だがもし、自死の可能性が出て来たのなら、どうなるのだろうか。
「誰かが毒を渡した可能性が出て来る」
それは……薬剤の知識がある限られた者。しかも、久世藩に身を置く者。有り得ない。有り得る筈がないと、利通はただひたすら、浮かび上がる兄の姿に首を振り続けた。
「おい、酷い顔をしているぞ」
翌朝。部屋から出て来た利通の顔を見て、平助が咎めた。
「眠れなかったのか」
「少し調べ物をしていて、床につくのが遅くなっただけだ。問題はない」
利通は嘘を吐いて、「顔を洗って来る」と平助に背を向けた。
外に出ようとすると、丁度戸を開けてつむぎが入って来た。
「あら酷い隈。昨日の話を引き摺っているのかしら」
「いえ別に」
内心ぎくりとしながらも、利通は平静を装おうとした。
「くら先生。今、あなたの心の中に思い描いている人は、そんなに命を粗末に扱える人なの」
「いいえ」
間髪置かずに否定した。
「だったら、うじうじ悩まずに信じなさい」
利通の手を取ると、巾着袋を掌に乗せた。
「何ですか」
重みを感じて、中を開けて覗いてみた。
「種」
何種類かの種が入り混じっている。
「色々な花の種よ。毅に集めるように頼んでおいたの。これを、小鈴さんに渡しに行って頂戴。種蒔きぐらいは分かるでしょ。何が咲くのか楽しみにして貰おうと思って。まあ、これから冬に向かうから室内の観賞用にだけれど」
つむぎはふふっと笑う。
「後は、亀之助さんとの文のやり取りを頻繁にさせましょう。とにかく、心を晴らさないと」
つむぎの思いはぶれない。いつでも患者の為の治療法を模索して、直ぐに行動に移す。良かれと思うものは迷わずに試す。
「分かりました。今日は一人、予後経過を見せにくるので、終わり次第行って来ます」
応えると、漸く外に出てばしゃばしゃと顔を洗った。
朝餉を終えて診療所を開ける準備をしていると、
「先生、つむぎ先生。新吉原会所の者です」
激しく表戸を叩く音がした。丁度術着を纏っていたつむぎは、その声に気付いて閂を外した。
「先生、ちょっと会所まで足を運んでは貰えないでしょうか。少し問題が発生しまして」
会所の男は息を切らせながら、つむぎに頭を下げた。
「ちょっと何よこの痣」
「こっちは煙管を押し付けられた痕ですね」
平助と共に新吉原の会所へやって来たつむぎは、さくらが、寮で他の遊女達から折檻され、身体中に痣や火傷の痕を作ったと聴き、連れて来られた会所の一室で診断をしていた。さくらは何を話し掛けても放心状態で、味わった恐怖の度合いが計り知れる。
「小鈴が養生に入った事は、皆が知っておる事でございます。ですが、それが先生のお力に因って特別にその間の借金を背負わないという事。その養生の場も、寮とは違って環境の良い事。総てをここの者とは違う赤の他人である誰かが、文を使って知らせたそうにございます」
四郎兵衛は、その文をつむぎに差し出した。繊細で達筆な文字で、小鈴の養生の経緯が書かれている。
「これは松代屋小袖の贔屓にしている加賀屋清右ヱ門という男が、この大門の前で見知らぬお武家様から松代屋の誰でも良いから女に手渡すようにと託されたそうです。編笠を深く被って顔は分からず。紋所も覚えていないそうで」
四郎兵衛に言われて、つむぎの脳裏に利通と振り返り見た編笠の男を思い出し、眉を顰めた。
「少し心当たりがあるわ。その清右ヱ門さんから分かる限りで、そのお武家の特徴を聴いて貰えるかしら」
「承知しました。それで先生、遊女達がこの真相を確かめたいと寮の方で待っております。禿の件は、憤りに因るやっかみ。今は未だ松代屋の遊女のみが騒いでおりますが、文を渡したお武家様の意思が掴めていない現状、他の店に飛び火しないとも限りません」
その言葉に、つむぎは顔を強張らせた。
「たすく先生は、ここでさくらちゃんの世話を」
「いえ、私も行きます。やっかみなら、気持ちが分かります。何とか落ち着かせる事が出来るかもしれません」
「分かったわ。じゃあ、四郎兵衛さん行きましょう」
つむぎはすっくと立ち上がった。
新吉原からほど近い三ノ輪寮。小鈴が養生する待乳山よりこぢんまりとした造りで、窓も多くない。そんな場所に、鳥屋に就いた遊女達が六人ほど入っていた。小鈴よりも年増だが、遊女としての格付けは低い。
鳥屋とは隠語で、黴毒の事である。所謂性病の事で、遊女達はほぼ感染していた。症状が出ても直ぐに死ぬ事はないが、症状が進めば身体中に膿疱などが出来、鼻が落ちたり皮膚がただれ、やがて神経や循環器が侵されて死に至る。だが皮肉な事に鳥屋上がりの遊女はどこか薄幸で妖艶な雰囲気を醸し出し、男からは人気があった。そしてまた情事を繰り返し、病状は次第に悪化していくのである。休めばその分の借金が増え、下手をすれば格下の店に払い下げられる。働いても地獄、休んでも地獄。そんな中でのし上がり、太夫となって身請けされ、堂々と大門を出る事は稀である。
そういった境遇で生きる彼女達が、一人抜け駆けのような待遇で養生する小鈴の事実を知れば、不満を募らせやっかむのは当然と言えよう。
つむぎと平助は、遊女達が待つ部屋に入って目を見張った。妓楼内とは違った粗末な着物を身に纏い、窪んだ目と顔や身体中の紅斑や瘢痕。一目で、症状が進んだ者達である事が分かる。
「驚いた」
つむぎは一瞬絶句した。
「ここは主に、禿や新造等の教育の場所。だから、重篤な者達は置けないって聞かされていたんだけれど」
つむぎは遊女達を一人一人注視する。
「あなた達、ここは何度目なの」
「皆、二度目でありんす」
「二度」
つむぎは驚愕した。
「何故、そんなに驚くでありんすか」
「廓で黴毒なんて当たり前の事。鳥屋に就いて一人前。主様の喜びも成ると成らぬでは全く違いんす」
「そうでありんす。初めて症状が出た時には、苦しみから十日程は休みもしましたが、この病は身体に何時しか馴染んでしまうでありんす」
「ややが出来ても流れてくれたり」
「それは、身体の機能が麻痺し始めているという事。正常でない表れよ」
つむぎが語気を荒らげる。
「そんな事は、百も承知でありんす」
だが遊女達は怯まずにつむぎを見返す。
「先生。わっち等は金で買われた女でありんす。商売道具。わがままを言えば折檻。病より先に、死ぬ事もありんす」
「それを分かっていながら、お前達はさくらちゃんを折檻したのか」
平助が言葉尻を拾って、口を挟んだ。
「主は疱瘡を患ったでありんすか」
「あぁ」
平助の顔の痘痕を見て、遊女の一人が尋ねた。
「さくらは無邪気。水揚げされて破瓜を知るまでは、わっち等に口が軽いでありんす。小鈴の楽な生活ぶりに、自身の休みの話まで、誠に笑顔で腹の立つ」
「たかがそんな理由で、精神を病んでしまう程に折檻したのか。お前達、身体よりその心が先に腐ったか」
「たすく先生」
首を振るつむぎを無視して、平助は尚も遊女達に厳しい視線を向けた。
「小鈴さんも相手の亀之助さんも、互いを想い合って必死に生きようとしていたから、私達は手を差し伸べた。けれど、お前達はどうだ。生きようとする気概が感じられない」
「わっち達も小鈴のように、借金を背負わずに大きな部屋でゆったり養生出来るのなら、心算も変わるでありんす」
「本当だな」
平助が凄む。
「高麗人参、砂糖、サルノコシカケ、熊胆、つむぎ先生、未だ診療所にありますよね。残りを売って、この人達の養生費に当てても構わないでしょうか」
平助の意を察して、つむぎはにこり笑って頷いた。
「先生の許しが出たので、お前達を小鈴さんのような養生所へ移す事は可能だ」
意外な答に、遊女達はざわめいた。
「ただ、何時まで養生するつもりか聞かせて貰いたい。はっきり言っておくが、お前達の黴毒は完治しない。薬で幾らか楽にする事は出来るが、毒は身体に残っている。再びここに戻って来て客の相手をすれば、症状は進むぞ」
平助は言葉を区切って、遊女達を見据えながら唇を噛んだ。
「お前達の境遇は分かるよ。でも、ここは地獄の一丁目じゃない。現世だ。もっと足掻けよ。七つまでは神のうち。それを過ぎて、人として歩き出したんだぞ」
平助の吐露は止まらない。
「何の為の手練手管だ。相手に、快楽を持続させたいなら、もっと私を大切にして欲しいと何故言わない。少しでも衛生を手掛けて来たか。滋養のある食事を、一緒に食べさせて貰ったか。何が、鳥屋に就いて一人前だ。正気か」
平助の思いに遊女達は勿論、つむぎまでもが息を飲んだ。
「もしも自分が男だったとして、黴毒が進んだ女を身請けしたいと思うか。借金を肩代わりしてまで、外に連れ出したいと思うか」
遊女達が顔を見合わせて、視線を逸らす。
「この世にはなぁ。必死に生きたいともがいても、疱瘡やコロリ、感染したら、本当に死が隣り合わせの病もあるんだ。たった一日で、家族が次々に逝く。それに比べたら黴毒には、潜伏期間がある。その間に、何故改善策を訴えない。これで一人前、多くの男達の袖を引ける。どうしてそっちに考えが向くんだ」
喚き続ける平助の目に涙が浮かぶ。
「楼主や遣手が怖くて言い出せないのなら、客の男に懇願させるとか方法はあるだろう。何で、たった一つしかない命……その身体を無駄に使うんだよ。お前達、本当に死んでしまうんだぞ。金がいくら貯まったって、生きて大門を出られない」
涙がこぼれ落ち、言葉も途切れ途切れになりながらも、平助は遊女達から視線を逸らす事なく訴える。
「死に急ぐために、産まれて来たんじゃないだろう」
「たすく先生」
つむぎが静かに言葉を掛けて、平助の肩に手を置いた。
「改善については私からも色々と楼主に提案していくけれど、まずはあなた達がどうしたいのか意見を頂戴」
つむぎは一人一人に視線を配った。平助の思いが届いたのか遊女達の顔から怒りは消え、穏やかになっていた。
「申し訳ない事でありんした」
遊女達が頭を下げる。
「ただ先生。改善はされても、おそらくは最初のうちだけ。ここには二千余りの遊女達がおりんす。総てに目は届きんせん」
「わっち達も自身で策を練りんすが、毎日の事でありんすから」
そう言って苦笑し、平助を見た。
「こんなわっち等を真剣に思い泣いて下さる先生が居て下さりんして、真に有難く思うでありんす」
「この有様でありんすから、この廓で生涯を終える事でありんしょう。けれど、わっちは後悔はしておりんせん。口減らしを逃れて、文字を教わりわっちだけの着物を仕立てて貰ったり、楽しい事もあったでありんす」
その思いに遊女達が頷く。
「それに最期が迫った時には、見苦しくないようこれを含み……」
「ちょっと」
遊女の一人が胸元から取り出した処方薬を見咎めて、つむぎは手首を掴んだ。
「これは何。何処で手に入れたの」
「永く苦しむ事なくあの世に旅立てる薬だと、籬を覗かれていたお武家様からこっそり」
「貸して」
直感で毒だと悟ったつむぎは、遊女の手から処方薬を取り上げると開いて色を確かめ、匂いを嗅いだ。無色無臭。見た目では成分が判断出来ない。平助も分からないと首を振った。
「これを持っているのはあなただけなの」
つむぎの言葉に、他の遊女達も胸元から処方薬を取り出した。
「他の店の者にも、話し掛けているようでありんした」
「どんな人? 顔を見た? 家紋は分かる?」
矢継ぎ早に尋ねる。
「編笠を深く被っておられて、口許しか見えんでありんしたが、穏やかそうに見受けたでありんす」
「家紋は丸にあれは葛の花」
言って小首を傾げ、他の遊女達に同調を仰いだが、他の者は見ていなかったり覚えていないと首を振った。
「それこそ、小鈴に聞けば分かるでありんす」
「最初に声を掛けられたんは、小鈴でありんすから」
「小鈴さんも、これを持っていると言うの」
問い掛けに頷く遊女達を見て、つむぎは背筋がぞくりとする感を覚えた。大岡越前守が訪ねて来た案件が頭を過る。
「貰ったのは何時ころ」
「わっちは十日ほど前」
「五日前でありんす」
「わっちはもう一ケ月」
「そんな頻繁に」
つむぎは顔を顰めた。
「たすく先生。外にいる四郎兵衛さんに話して、直ぐにどれだけこの薬を貰った人がいるのか確かめて。それと共に、ここ一ケ月内に不審死が増えていないかも」
「はい」
平助は顔を引き締めて頷くと遊女達を振り返り、「自愛下さい」そう言って頭を下げると出て行った。
「悪いけど、この薬は預かるわ。成分を調べるつもりだけど、その上で万が一本当に自死を遂げさせる薬だったなら、医者としてあなた達には戻せない」
つむぎがきっぱり言い切ると、遊女達が大きく首を振った。
「それは、わっち等の気休めになる、お守りのようなものでありんす」
「真は怖いでありんす。朽ちる己が姿を見、苦しみ抜いて一人心細く逝く事は。でも、それを飲めばすっと逝ける。その安堵感が、必要なんでありんす」
遊女達は、返して下さいとばかりにつむぎを見つめて手を差し出した。
その姿を見て、つむぎは唖然とした。これほどまでに遊女達は追い込まれ、安楽死という選択を簡単にしてしまうのかと。そして、それを助長する者が確実に存在するという事に沸々とした怒りを覚えた。
「命を粗末にしないで。生きた証しを、簡単に消さないで頂戴」
つむぎは叫んだ。
小鈴は、いつものように部屋の片隅から富士の山を見上げていた。その膝の上には、広げられた文が置かれている。文は亀之助からで、少しずつ症状が改善している旨が書かれ、現在は座元に復帰の暁には小鈴を身請けし、更なる精進をする事を交渉していると、踊るような文字で書かれていた。
「わっちは」
小鈴の目には困惑の色が浮かんでいた。禿の時から教養は身に付けている。けれど、それは実際に見て体験したものではない。聞き齧りの知識である。実際に外の世界に出て、通用するのかどうか不安が募った。
「小鈴という女はいるか」
凛とした若者の声がして、小鈴がはっとして声の方を振り仰ぐと、元服して間もないほどの良家と思われる身なりをした武家の若者と、その従者と見られる編笠の男が二人、部屋に入って来た。若者は透き通るほどに色白で、小鈴の目を惹いた。
「会所の者達は」
小鈴はそう呟いて二人を見つめ、思わず身構えた。
「その節は」
「あ」
編笠の男が顔を上げて小さく頭を下げ、見知った男であった事に小鈴は少しばかりホッとした。
「亀之助との事で少しばかり、小鈴……お前付きの禿が酷い目にあったらしくてな。それで、表にいた者達は会所の方へ戻ったようだ」
「えっ、一体何があったのでありんすか」
若者は横柄な物言いで伝え、小鈴はただ驚いて尋ねた。
「それは道々話そう」
「道々?」
「これから亀之助の所へ参るぞ」
「主様の元へ」
「主か」
若者は口角を上げた。
「彼奴には、座元の決めた許嫁がおるぞ」
小鈴は耳を疑った。
「大川をその足で越えれば、確かめられる。共に来るが良い」
くるり背を向けた。
だが、小鈴も亀之助も養生の身の上。勝手はつむぎが許さないであろう。しかも小鈴は、許可なく勝手な移動をする事は許されない。
「行き先は外に詰めていた男等に、会所に戻る際に伝えて欲しいと頼んであります。心配は無用です」
編笠の男が、やんわりとした口調で告げる。
「ですがわっちは、医者先生から互いに完治までは逢う事はならぬと」
「私も医者です。逢う程度なら構いません。参りましょう」
にこり微笑んだ。
「お昼を廻ってしまったな」
利通はぼやきながら、待乳山の養生所へ急いでいた。つむぎと平助が会所からの急な呼び出しで出掛けてしまい、利通が診療所に残って診察をしていた。そこへ毅と一緒に、伝通院近くで医者をしている小川笙船が訪ねて来た。笙船は後に目安箱を通して、小石川養生所を幕府に作らせる男である。
「診療所は任せろ」
毅と笙船に言われて、出て来たのだ。
「大丈夫だろうか」
利通は笙船の腕を知らない。更に毅のからくりの暴走も否めない。戻るべきかと一瞬足を止めた刹那、袖口から種袋が落ちて地面に種が散らばった。
「わっ」
慌てて屈むと、種を拾い集めた。
「朝顔」
目前の種をつまみ上げた。そんな利通の脳裏に幼い時の光景が過る。
父が藩主から頂いて来た朝顔の種。父に従って勉学に勤しむ兄を横目に、利通は父に申し出て朝顔を育て始めた。丹精してようやく大輪を咲かせた。父の帰りを待って見せようと思っていた矢先に、花は日中の突風で落ちてしまった。気落ちしていた利通を見兼ねた兄は、落ちた花を手にすると医療用の針と糸を持ち出してきて、丁寧にまるで始めからそこで咲いていたかのように縫い付けた。優しい兄だった。
「兄上」
利通自身が起こした事件が、兄に肩身の狭い思いをさせていないだろうかと、急に心が波風を立て始めた。
「診療所に戻ったら文を書こう」
心に決め、種を拾い集めると養生所の前までやって来た。
外にいる筈の会所の男達の姿がなかった。ドクンと心の臓が波打つのが分かった。慌てて中に入ると、敷地内の奥の茂みの陰に人の足が見え、走り寄ると会所の男達が倒れていた。
「これは」
どうやら鼻薬を嗅がされ、気を失っている様子だ。
「おい、しっかりしろ」
頬を叩いて覚醒させる。
呻いて頭を振りつつ目を開ける男は「いきなり背後から」そう言ってはっと立ち上がり、養生所へ飛び込んだ。何処にも小鈴の姿がない。
「しまった」
「文七、会所に知らせてくれ」
「分かった」
文七と呼ばれた男が頷き、走って行く。
「一体、何があったのですか」
「それが……。直ぐ前の茂みに人影が映ったので、誰だろうかと二人して視線を向けた矢先に、背後から何かを嗅がされて」
完全なる失態だと会所の男は唇を噛む。
「その者の特徴は分かりますか」
「咄嗟の事で。ただぼんやりと、編笠だけは見た気がします」
利通の顔が強張った。
「くら先生」
そこへ、四郎兵衛と共につむぎと平助が走り込んで来た。先程会所に向かった文七もいる。
「向こうでも事件があったらしい」
「何だって」
文七が告げ、利通と二人してつむぎ等を振り仰いだ。
「これを遊女達に渡し歩いていた編笠の武家がいる」
平助が懐から処方薬を取り出して、利通に見せた。
「無色無臭。今は成分の特定が出来ていないけれど、即効性の毒物らしいわ」
つむぎの言葉に、利通は息を飲んだ。
「大岡越前守様の抱えておられる事件と関連性が高い」
「今、廓内の店々を当たらせておりますが、回収前に服毒死を図った者達もおりまして。その編笠の男は、小鈴にも目を付けていたらしいと言うので駆け付けた次第です」
「先を越されたか」
平助が地団駄を踏む。
「何処へ行ったか」
四郎兵衛が眼光を鋭くさせて唸る。
「亀之助さんの所は確認しましたか。毒を手渡されたのなら、相対死の可能性も否めません」
利通の意見に、皆がはっとなり頷いた。
「寺島村に行ってみましょう」
「急ぎ船を手配して来ます。お前達は会所へ戻り、他の者達と武家の男の情報と薬が渡った数を調べてくれ。それを追っ付けやって来る南町の方にお知らせするのだ」
「はい。この失態、申し訳ございませんでした」
小さく頷いてみせる四郎兵衛に頭を下げると、男達は走り去った。
「では私は先に舟着き場の方へ」
四郎兵衛も告げるや、風のように走り出した。
「一体全体、何が目的なんだ」
憤りの言葉を吐いて、平助が続く。
「くら先生」
利通も走り出そうとしたその時、つむぎが呼び止めた。
「はい」
「ちょっと尋ねたいんだけど、あなたの家の……ううんいいわ。ごめんなさい、小鈴さんを探す事を先にしましょう」
つむぎは言い掛けた言葉を飲み込み首を振ると、利通の背を押して一緒に走り出した。
「座元、その話は承服しかねると何度も申し上げております。それに私は未だ完治をしていない身。世話をさせるからと、ここに置き留められても困ります」
紋付袴姿で恰幅のある有吉座の座元である勘助を前にして、亀之助は蒲団の上で半身を起こしながら、眉を顰めた。
そこへ、亀之助の浴衣を手に一人の若い女が入って来た。すらりと品のある美しい女性である。
「亀之助様、汗をおかきでしょう。お召替えを」
「そこへ置いて行って下さい。己でやります」
顔を見ずにぴしゃりと言って、亀之助は勘助に視線を向ける。
「はい。では私は昼餉の支度を致します。何かありましたら呼んで下さいませ」
そっと浴衣を置くと、女は部屋を出て行った。
「美和殿は、贔屓筋である田端播磨守伝右衛門殿のご養女」
「身分が違います」
「それは、お前がうんと言えば何とでもなる」
突っ撥ねる亀之助に勘助が食い下がる。
「私は小鈴を娶ると心に決めております」
「それだけは成らぬ」
勘助は毅然と言い放った。
「お前はその女に老咳を感染され座を空けて、その事で贔屓筋からは苦言を頂いている。今はお前の穴を埋めるべく、後に続く亀五郎や鶴丸が懸命に頑張っているんだ。お前はそれに水を差すつもりか」
「そんなつもりは」
「亀之助、芸の世界を舐めてもらっては困るぞ」
亀之助の言葉を遮り、勘助は声を荒らげた。
「喰うか喰われるかの世界。贔屓筋を失い、且つ座の評判を貶めた役者を、完治しても早々には戻せぬ。亀五郎や鶴丸の下に付いて、今一度這い上がる努力をして貰う事になる」
「それは、覚悟しております」
亀之助は、じっと勘助を見やった。
「前とは違うぞ。お前が兄弟子を見限ったように、今度はお前が見限られて足を引っ張られよう。小鈴を娶らば、尚更風当たりはきつくなる。美和殿を突き返せば、田端殿も黙ってはいまい。お前は、座を朽ちさせる気か」
「ですから、そのような」
言い掛けて亀之助は、激しく咳き込んだ。
「亀之助、お前の芸を見込んでいるからこその頼みだ。小鈴とはもう文のやり取りなど致すな。後で私の方で、体調を悪化させた故に、身請けの話は流すと伝えておく。見合わぬ夢は見るな」
背で息を繰り返す亀之助に、勘助は懇願した。
「亀之助さん」
そこへ、つむぎ達が飛び込んで来た。
「これは先生。皆さんお揃いで、どうされたのです」
亀之助はつむぎ等に視線を向け、胸元に手を当てて呼吸を整えながら尋ねた。
「小鈴さんが、ここに来なかった」
「小鈴がですか。いいえ」
応えると、つむぎ達は顔を見合わせた。
「小鈴の身に、何かあったのですか」
尋ねる亀之助に、つむぎは今までの経緯を話して聞かせた。
「えっ」
聴き終えた亀之助は、立ち上がるや縁側の方へと走り出した。
「亀之助さん」
慌てて利通が後を追う。亀之助はじっと外に目を向けながら、よろけながらも廊下を走って行く。恐らくは、小鈴の姿を探しているのだろう。だが見付けられずに一周し、唇を噛むと、今度は外に向かって走り出そうとした。
「止めないか、亀之助」
勘助が叫ぶ。
「座元、申し訳ないが、座を去る事になったとしても、私は小鈴を娶ります。小鈴を二度見捨てる事なぞ、私には出来ません。夢は、夢を見る事は自由です。それを叶える叶えないは己の力量。横槍を入れられる筋合いはありません」
勘助を睨め上げ小さく頭を下げると、亀之助は外に飛び出して行った。
「こちらに向かっていたのなら、四方一町以内の距離からここを見ているでしょう。手分けして探しましょう」
外に出ると、つむぎ等は四方に散って走り出した。ある者は小鈴の名を叫び、ある者は村人達に確認しながら。
「えっ、見掛けた」
収穫した作物を籠いっぱいに入れて背負い歩いていた村人の男に、利通は聞き返した。
「へぇ。少し前にこの先の坂を上がって行かれました」
「誰か連れはいましたか」
「いいえ。お一人でふらふらと」
男は首を振り、利通は坂の方を見つめた。少し小高い丘のようで、一本杉が見えた。
「ありがとうございます。すみません、もしも私のように走り廻って探している人を見掛けたら、今の事を伝えて貰えませんか」
「へぇ、分かりました」
「お願いします」
利通は頭を下げると、坂の方へ走り出した。走りながら利通は、背後を確かめた。視界につむぎ等が入ったら、大声で所在を知らせようと思った。だが、そんな利通の視界に別のものが映って、思わず立ち止まる。
そこからは亀之助の養生所が見渡せた。勝手場だろうか。開いた窓から煙が上り出で、女が動いている様子が見えた。利通等は未だ、美和の存在を知らない。誰だろうかと思った。そして同時に、小鈴がこの状況を見たらどうするだろうかと思った。次の瞬間利通は、一目散に坂道を駆け上がり始めた。
「くら先生」
背後からつむぎの叫び声がする。振り返ると、村人に聞いて駆け付けて来たのだろう、平助の姿もあった。
「この上に向かったようです」
叫びながら尚も駆け上がる。
一本杉に辿り着くと、反対の道から亀之助と四郎兵衛が駆け上がって来ていた。互いに息を吐きながら辺りを見回すと、杉の木の丁度真裏に当たる根元に、女物の着物の裾が見えた。
漸く走り来たつむぎと平助が、利通を見つめる。利通と亀之助は無言で、同時に杉の木の裏に廻り、息を飲んだ。
小鈴が口許から一筋の血を流し、空の包みを手に杉の木を背に倒れていたのだ。
「小鈴っ」
叫び走り寄りそうな亀之助を手で留めて、利通が歩み寄る。口許に左手を翳し、右手で脈を取る。その脇につむぎも座り、小鈴の瞳の状態を見つめる。そして互いに顔を見合わせて小さく首を振り合った。
その姿を見て、二人を掻き分けるように亀之助が走り寄った。
「何故、何故だっ」
叫び泣き、もう動かぬ身体を抱き寄せた。
四郎兵衛が道に出て、川の方角を注視する。舟着き場とは違う場所から、ゆっくりと大川を下り行く小舟が見えた。丘からでは豆粒ほどにしか人影は見えないが、船頭以外は二人が乗っているようだった。どちらも笠を被らず、端からは物見遊山に見えた。
「違うか」
四郎兵衛は舌打ちした。
助ける事が出来なかった……。それぞれがその思いに歯ぎしりをする。
「くら先生、あなたの小倉家の家紋を教えてくれる」
つむぎが、先ほど飲み込んだ言葉を口にする。
「家紋ですか」
こんな時に何だろうと、利通はつむぎを見た。つむぎは何時になく真剣な顔をしている。
「丸に葛の花ですが」
応えた刹那、つむぎは目を閉じて天を仰ぎ、利通の隣にいた平助が驚愕した視線を向けた。
「何でしょうか」
「寮の遊女達が、編笠の男の家紋を憶えていたんだ」
弾かれたように平助に視線を向ける。
「まさか」
「あぁ。丸に葛の花だ」
目の前が真っ暗になった。同時に脳裏に優しげな兄の姿が浮かび上がる。
「違う」
呟いてよろめく。
「おい」
平助が支えようとするのを、無意識に払い除ける。
「嘘だ」
張り裂けそうなぐらいに鼓動が高鳴り、息苦しさを覚えた。
「くら先生」
明らかな異変を見て、つむぎと平助が両脇から利通を支える。
「兄……上」
ふっと、利通の意識が遠のいた。
大川をゆっくりと小舟が下って行く。先ほど四郎兵衛が、丘の上から見た小舟である。
「利政。どうやら小鈴は、待乳山へは戻らなかったようだな」
「そのようですね、義直様」
寺島村の方角を振り返り、利政と呼ばれた男が小さく頷く。その男の背に丸に葛の花の家紋があった。男の座す脇には編笠が置かれている。
「賭けは総て私の勝ちだ。人は簡単に、決められた道を閉ざす選択が出来る。たとえ、己が為に嘆く者が居ると分かっていてもだ。国許へ戻った際には、あの約束を遂げてくれるな」
「……はい」
しばし迷いながらも、目を伏せて頷いた。
「それが本来、久世藩の取る道なのだ。利政には、迷惑が及ばんようには致す」
呟き、前を見据える若者に、利政は何も応えずただ膝の上の拳を握り締めた。
『利通、お前は今何処にいる。私を、私達を止めてくれ』
利政は、心の中で悲痛な叫び声を上げた。
「今日は、やけに水面が穏やかですなぁ」
年配の船頭が舟を操りながら笑顔を向ける。まるで嵐の前の静けさの如く、陽を受けて輝きながら水面が舟を運んで行った。
了