「短歌は名詞のセンスよりも、助詞とかの使い方のほうが難しいんですよね。だから、そっちに慣れていないと、かっこいい単語を集めてきてもその処理が難しくなる」

6月講座には、穂村弘氏を講師としてお迎えした。
1962年、北海道生まれ。1989年に第一歌集『シンジケート』(沖積舎)を、1992年に第二歌集『ドライ ドライ アイス』(沖積舎)を刊行。90年代のニューウェーブ短歌運動を推進する。評論家としては2008年、短歌論『短歌の友人』(河出書房新社)で伊藤整文学賞を受賞。エッセイストとしては2017年には『鳥肌が』(PHP研究所)で講談社エッセイ賞を受賞。2018年には17年ぶりの歌集『水中翼船炎上中』(講談社)で若山牧水賞を受賞。現在の歌壇において、もっとも注目される歌人・評論家の1人である。
講座の冒頭では、まず世話役の池上冬樹氏(文芸評論家)がマイクを持ち、講師を紹介した。
「今日は穂村弘さんをお招きしました。穂村さんには今まで何度か来ていただいて、最初のうちはエッセイも取り上げていたのですが、ここ2~3年は短歌に特化した講座にしています。これをやると、短歌を詠んだことのなかった人も送ってくるんですね。そういう新鮮な驚きもあるし、面白い講座になると思います。今日はよろしくお願いします」
続いて穂村氏のあいさつ。

「穂村弘です。山形に来るのは前回の講座以来2年ぶりですが、あまり久しぶりという感じはしないですね。人前で話すのは何回やっても慣れなくて、今日ここで会う人は最初で最後かもしれないと思うと、どうしてもあがってしまいますね(笑)。今日はよろしくお願いします」

●「真夜中は嫌い」茶摘屋七丸
・株式は今日も小幅な値動きでいつも正しい温度の五月
・地獄ならハマノさんちにありました猛犬注意開け放つ門
・私が定形内であったなら善人だったはずの両親
・『くずを捨ててください』叫ぶいつもなら泣きごとひとついわない機械
・真夜中は嫌い月にあてられた夢のかけらが暴れ出す
・何事も無かったように明日は来る明朝体でしゃべるみたいに
・穂村氏の講評
「真夜中は嫌い」というタイトルが印象的ですね。何かが嫌いとか何かが好きって言うとき、リスクが生じるというか、責任が生じるというか。
昔、僕が作った「知んないよ昼の世界のことなんか、ウサギの寿命の話はやめて!」っていう歌があって、これはある女性が言った言葉を組み合わせて作ったんだけど、彼女の場合は「昼の世界のことなんて知らない」という断言があって、「昼の世界」とはたぶん法律とか資本主義とか社会システムとか、主にわれわれが生きている世界のことであって、だから極端に言うと江戸川乱歩みたいなことですよね。乱歩は夜の世界のほうが好きだったという。この連作はその逆で、真夜中は嫌いなんだという。そう言われると、どんなふうに嫌いなのか知りたくなります。
茶摘屋氏:本当は、真夜中が嫌いというより、真夜中に目が覚めたときに、あのときああすればよかった、こんなはずじゃなかった、といろいろ考えてしまうことが嫌いという意味で考えたタイトルです)
「真夜中は嫌い月にあてられた夢のかけらが暴れ出す」、月にあてられた夢のかけらが暴れ出す、って必ずしもいけないことではないような気がするから、もしかすると本当に嫌いなのは、いまご自分でおっしゃったように、真夜中ではなくて、何か夢が思い通りにならないことなのではないかと思いました。
「株式は今日も小幅な値動きでいつも正しい温度の五月」は、何ていうか、自分とは無関係に世界が正常運転されている感じかなと思って読んだんだけど、たぶん自分の心はもっと荒れ狂うポテンシャルがあるんだけど、そういうものと世界が接触できないまま、世界は勝手にいつも通り運行されている、というようなギャップが全体にあって、自己革命のような変化を望んでいるような雰囲気が、全体にあったのかな。
「地獄ならハマノさんちにありました猛犬注意開け放つ門」、これは面白いですね。「猛犬注意」という張り紙がよくあって、かならず「猛犬」なんだと思うんだけど(笑)、犬がいるだけで、どんな可愛い犬でもシール的には「猛犬」になるみたいな。だからこのハマノさんちの犬も本当に猛犬なのか、そもそも本当に犬がいるのかどうかもわからないところがあるけど、そういう家の門が開け放たれていると、潜在的に何かすごいことが起きそうな、そんな予感があるのかな。

池上氏:「『くずを捨ててください』叫ぶいつもなら泣きごとひとついわない機械」っていうのは、ちょっと僕はわからなかったですね)
たぶん、普段は泣きごとひとついわないことを強制されていて機械のようにそれに馴染んでいるんだけど、何かの拍子にそれが切れて叫ぶ。くずというのは自分のことで、自暴自棄なイメージとして読みました。それは前の歌があるからなんだけど、「私が定形内であったなら善人だったはずの両親」、これはアイロニーだと思うんだけど、定形は通常のレギュラーという意味なのか、それとも定型発達という限定された意味なのか、結局は同じことだと思うけど、要はマイノリティということだと思うのね。みんなと同じだったなら安心して、いい人だった。そうでないということは、いろいろ親が言ってくるんだと思う。なんであなたはみんなと同じようにできないの、みたいなことですよね。そのことを引け目にも思い、悲しくも思い、怒ってもいる。それをそうは書かずに、悪い人たちではないんだけど社会に洗脳されきっていて、非定形の魅力や可能性を汲んでくれない、という親との葛藤なのかなと思いました。
全体に同じテーマで、「何事も無かったように明日は来る明朝体でしゃべるみたいに」というのも、明朝体というのはレギュラーということですよね。一番ベーシックな。株式が小幅であるとか定形内であるとかと同じで、明日も同じように自分を置き去りにして世界は明朝体で定形で動いていくだろう、でも自分の心はそれについていけないし、もっと違う願いがある、という切迫感みたいなものがあって、「真夜中は嫌い」というタイトルと、その切実な叫びのようなものは、マッチしているのかな。
池上氏:なかなか面白いですね。歌としてはどうですか)

「地獄ならハマノさんちにありました」とか、ハマノさんって誰、っていう話ですよね(笑)。小説ならばハマノさんって誰なのか説明できるけど、短歌の場合はわからないわけです。でもハマノさんっていう人がいるんだろうな、っていう思い込みの激しさみたいなものが感じられるので、この2首目が特にいいような感じがしますね。
●路地有
・青空の光の先の裏側のパラレルワールド住んでいる君
・ぐるぐるとまわってバターになりました虎のバターが今日の脳みそ
・防音の壁に囲まれ叫ぶ叩く奏でるために息をしている
・穂村氏の講評
「青空の光の先の裏側のパラレルワールド住んでいる君」という歌を、僕が使っている「一太郎」というソフトに打ち込んで変換すると、ソフトに怒られると思うんです。「の」の連続、って。つまり、通常の散文では「青空の光の先」ぐらいが限界で、もう一個「の」を付けると、推敲の余地ありみたいなのが推奨される。でもそれはあくまで散文を念頭においた話で、短歌はそうではない。「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」という、佐佐木信綱の有名な歌がありますけど、これも「の」の連続ですね。「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」という、啄木の歌もそうです。通常われわれが使っている散文と、定形詩である短歌では、言葉のルールが違う。この作者はそのことがわかっていて、「の」を連続させることで、われわれのいる現実の世界から出発してどんどん突き進んでいって、向こう側に突き抜ける。信綱の歌は、どんどん視点をフォーカスしていくんだけど、この歌はどんどん進んでいく先にパラレルワールドが出てくる。逆にいうと、パラレルワールドというものがどこにあるのか、という作者なりの感じ方が、「の」という助詞の連続で表現されています。そこが面白い。
池上氏:この「ぐるぐるとまわってバターになりました」というのは何でしょうか)
これは『ちびくろさんぼ』の本歌取りですね。池上さん知らないの? ミステリばっかり読んでるから(笑)。和歌の時代は他の短歌から取るのが本歌取りだったけど、今は逆に、コマーシャルとか駅のアナウンスとか、ああいうものを取らないと、みんなが知っている短歌なんてないし、みんなが歌える歌謡曲みたいなのもないし、みんなが知っている定形の言葉がなくなっちゃったから、「白線の内側にお下がりください」とか「お風呂がわきました」とか、そういうものが本歌取りの対象になるんですけど、これは絵本の本歌取りです。本当は虎がバターになること自体がシュールなんだけど、それがさらに「今日の脳みそ」というところに絡められている。今日の脳みそっていうものを表現しようとした歌ということになりますかね。
最後まで読まないと真意がわからない、というところが短歌としての長所です。新聞記事の場合それは短所で、最初のパラグラフを読んだ段階で、いつどこで誰が何をどうしたのか、というのがわからないと記事としてはダメですが、短歌の場合はそうじゃなくて、最初からこれが「今日の脳みそ」の話だということがわかってはダメなんです。最後のカードが開いた段階で初めて全体が何だったのかわかる、というのが望ましい。1首目も2首目も、その短歌の生理を掴んだ構造になっていますね。

池上氏:「防音の壁に囲まれ叫ぶ叩く奏でるために息をしている」はどうですか)
これはちょっとわからなかった。比喩だとは思うんですけどね。心を部屋のように表現しているのかなと思ったんだけど、わからなかったのは、「叫ぶ叩く」でいったん切れるのか、それとも「叫ぶ叩く奏でる」が並列なのか。本当は奏でるためなのに叫んで叩いちゃってるのか、それとも3つが並列なのか。
路地氏:そうですね、イメージ的にいうとロックな感じというか、あまり売れない、発表の場がないバンドの人が、叫んだり叩いたり奏でたりしている、みたいな)
なるほど、じゃあ並列なんだ。なぜここが並列かどうか迷うかというと、短歌だから、575・77で読むから、「防音の壁に囲まれ叫ぶ叩く」で上の句として切れちゃうんですね。あと、「叫ぶ叩く」に対して「奏でる」は柔らかい行為だから、これが並列という感じがしなくて、対立しているように見えちゃう。奏でなきゃいけないのに叫ぶ叩くをしているのか、という読みが発生してしまう。作っているほうはわかっているからそういうことをあまり考えないんだけど、初めて見た人の視点が必要になる、という感じかな。

●「決して交わらない」鴨野ユーリー
・真夜中に開けた冷蔵庫の中に明るい未来があればいいのに
・ここでまた花が咲きそして散るだろう終われなかった恋の代わりに
・青い目で「中国人か?」と聞いてきた老婦の前でコーラを飲んだ
・まっすぐに決して交わらないままに飛行機雲が僕らの上を
・降り出した夕立の匂い暑かった夏はもうすぐ南へ渡る
・穂村氏の好評
「真夜中に開けた冷蔵庫の中に明るい未来があればいいのに」、冷蔵庫の中というのは真夜中に比べれば明るいですよね。でも明るいのに冷たいし、行き止まりですよね。その微妙さが象徴性を持っていて、それが「明るい未来があればいいのに」という言い方と被ってくる、というのかな。そういう面白さがあるし、あとシーンがわりとはっきり見えてきます。
「ここでまた花が咲きそして散るだろう終われなかった恋の代わりに」、これも、さっきハマノさんが誰なのかわからなかったように、「ここ」がどこなのか特定できないんだけど、自分のいる、恋をした場所みたいなことなのかな。終われなかった恋の代わりに花が咲き散るだろう、と。全体的に、現代短歌の密度からするとややゆるくて、ポップスとかの歌詞ぐらいの感じかな。言語表現の密度の、適正さというのは経験則みたいなもので、みんなが何十年何百年作り続けた経験則でだいたいこのぐらい、みたいになっているんだけど、それはある意味では状況が変わるとすぐに揺らぐもので、同じ作者でも、たくさんの人の前で朗読するために短歌を作ってくださいみたいに言われると、いつもよりゆるくなります。あと、目で見ないとわからない、同音異義語を入れなくなる。そういう感じがあって、これは耳で聞くレベルの短歌かな、という感じですね。
「まっすぐに決して交わらないままに飛行機雲が僕らの上を」、決して交わらないというタイトルがここで出てくるんだけど、飛行機雲が平行に走っているんですかね。そうすると交わらないんですけど、この短歌のいいところは、最後が省略されているわけですよね。なぜ省略されているかというと短歌だからで、ここで終わらないと歌にならないからですけど、それが言いさしみたいになって、飛行機雲の、どこで始まってどこまで伸びるかわからない感じと合っています。あとは、「僕ら」という複数形ですね。決して交わらない飛行機雲と、僕と君の関係性が比喩のようになっている。そういう瑞々しい感覚がここで成立していて、この歌が一番いいかなと思いました。

●吉良
・脱衣篭 無いはずがない 我が眼鏡 消える悦楽 襲う戦慄
・春分の 夜にきらめく 輝きは 橋から見える 燃ゆる我が家よ
・猛暑日に 浮かぶ真実 君はサド くれたボトルの 中身が個体
・部屋違え 扉開ければ 役員会 重役叫ぶ 「なんだ君は」
・光無き 冬の峠で ライト消す 私がいるのは この世だろうか
・穂村氏の講評
575・77で1字あきになっていますが、これは詰めちゃってください。
「脱衣篭無いはずがない我が眼鏡消える悦楽襲う戦慄」、これは温泉みたいなところで、それまでご機嫌だったのに眼鏡がなかった、ということなんでしょうね。眼鏡を盗む人はいないと思いますけど(笑)、それまでご機嫌だったのに戦慄に襲われた。この下の句は対句表現になっているのと、あと大げさですよね。おそらく意図的に、実際の物事より大げさに表現しているのが面白いかな。
「部屋違え扉開ければ役員会重役叫ぶ『なんだ君は』」、これは役員会という言葉は使わないほうがいいですね。重役が叫べば、そういうものだとわかりますから。さっき言ったように、最後のカードを開くまで全体像がわからないほうがいい、という原則からすると、「役員会」でカードが開いちゃう。だから、「重役叫ぶ『なんだ君は』」の一撃で決まったほうがいいのかな、という感じです。
「猛暑日に浮かぶ真実君はサドくれたボトルの中身が個体」、これは凍っているということですね。よかれと思ってのことでしょう。最近は凍っているボトルも売っていますし、適正な時間ならいいんですけど、ちょっと早かったんですね。あえて固体と表現して、氷という言葉を使わないところが面白いですね。

池上氏:そんな日常的なことだったんですか。僕はもっと違う次元の話かと思ってしまいました)
ふふ。氷で刺すとか羊の肉で殴る、とかそういうのがインプットされすぎているのでは(笑)。ダールですね。
「光無き冬の峠でライト消す私がいるのはこの世だろうか」、歌としてはこれが一番いいかな。実感的ですよね。真っ暗になっちゃったというだけだと思うけど、冬の峠で車とかが故障したらかなり怖いですよね。私がいるのは本当にこの世だろうか、と思ってしまう。あと峠っていうのは特殊なゾーンですよね。何かと何かの境界みたいなイメージで、そこがいいのかなという感じですね。

●越智しづる
・わたし次女兄が生まれた世界でも生まれなかった世界でも次女
・剥き出しの悪意にそっと黙りこむ砂を吐けないあさりのように
・孫の名を忘れた祖母に「ひまわりをいつ植えよう、ミキコ」と訊かれて
・穂村氏の講評
「わたし次女兄が生まれた世界でも生まれなかった世界でも次女」、面白いですね。言ってる意味はその通りだけど、なぜこれが書かれたのか、を想像させられる。もしわたしが男性だったら兄がいるかいないかで長男か次男かの序列が決まるけど、でも女性であると兄がいようといまいと次女であることは変わらない、ということなんだけど、なぜこの短歌が書かれたんだろう、と思って。自分が女である、ということに何か思いがあるのかな。
越智氏:私は実際に次女で、姉がいるんですけど、もしかしたら間にもうひとりいたかもしれない、と母から聞いたことがありまして。性別が分かる前に、生まれなかったんですけど、もしそれが兄だったらという思いで書きました)
池上氏:それはつまらないね(笑)。次女が何かを象徴している、というわけではないんだね)
いや、その気持ちを表現してこの歌になる回路が面白いです。普通そうはならない。けっこうユニークな発想です。10年ほど前に、おひなさまを一度も飾ってもらったことがない、という短歌を見て、貧乏なのかなとか親がいないのかなとかいろいろ考えたら、作者が男だったことがあって(笑)、でも10年後のいま考えるとまたそれはそれで何かあるのかな、と深読みしてしまう。短歌というのはどこまでも深読みできるんです。小説だったら、ひな壇を飾られなかったことが自分にとってどれだけのダメージだったのか語られるけど、短歌はそこで話が終わるので、なぜその人はそれを書こうと思ったのか、ホワイダニットというか、動機がわからない。
「剥き出しの悪意にそっと黙りこむ砂を吐けないあさりのように」、これは自分の性質の比喩なんでしょうね。「剥き出し」というこの漢字の感じと、剥き身のあさりみたいなものが無意識のどこかで響き合うので、この比喩は効いているのかな。短歌の場合、意識の奥で何かが響き合うというか、俳句でいう二物衝撃ですかね。韻文のタームとしてはいろいろな言い方があるけど、原理としては同じで、一見して離れているように見えるものが、どこかでつながっているような。ここでは剥き出しの開いているあさりが連想されるのがいい。
最後の歌は、「孫の名前を忘れた祖母」と書かないで表現できれば、そのほうがいいですね。最初にそう出てしまうと、その前提で読んでしまうので。短歌の場合は、全体を読んだときにそうかもなと思わせるぐらいでいい。忘れているというのは悲しいことなんだけど、ひまわりを植えるというのは未来に向けての提言といえるかな。記憶はさだかでないんだけどひまわりを植えようという意志が祖母の中にある、ということでこの歌は成立するから、孫の名を忘れたところまで説明はしなくていいかな、という感じがしますね。

●「雨の言葉」うにがわえりも
・休日のグラウンドに白線引けば雨の言葉が聞こえる六月
・雨の日だけ使えるクーポンあると言う友のつむじに降る霧の雨
・日本はいい季節 衛星写真に色とりどりの雨傘ならび
・干からびたいくらを舐めるねこがいてまだ明るさのなかにある駅
・「ねえ先生、見て下さいよ」振り返れば如雨露から出たささやかな虹
・穂村氏の講評
最初の歌は、実際に雨が降っていたら白線は引かないでしょうから、このときは降っていないと思うんですよね。でも六月だから降るかもな、と思って微妙に恐れているのかな。
全体に雨のテーマになっていて、「雨の日だけ使えるクーポンあるという」というのも面白いですね。実際にそういうクーポンがあるのかもしれないけど。その面白さに対して「友のつむじに降る霧の雨」という下の句は、この落とし方でいいのかどうかは一考の余地があるかな。
「干からびたいくらを舐めるねこがいてまだ明るさのなかにある駅」、この下の句も、季節的には昼が長いんじゃないかと思うんですね。だから、冬だともう日が落ちてる時間だけど、まだ明るいというイメージ。短歌は情報を過不足なく提示できればいい、というものでもないんですよね。だから、この下の句もなかなか魅力があって、「干からびたいくらを舐めるねこ」のクローズアップに対して、「まだ明るさのなかにある駅」っていう、ふわっとした着地なんだけど、この歌が一番いいと思います。
最後の歌は、3句目が「振り返れば」なんだけど、これが「振り向けば」でない理由が何かあるのかな。音数の問題で、「振り向けば」だと3句目が5音でちょうど定形になるんだけど、「振り返れば」だと6音になって、ちょっと伸びちゃうんですよね。
●「黒くていいんです」古間恵一
・陰毛もわずかな裂け目で絡み合う防草シート照る中目黒
・黒真珠集める蛸が棲むという島の女は大甕で寝る
・人の背で触覚動かすゴキブリ眺め休憩を待つ弱電工場
・教習所に来るカラスに物申す「胡桃爆弾投下禁止」だ
・孀婦岩、ウミコオロギとハサミムシの対決観たく漕ぎ出すボート
・穂村氏の講評
全体的にある感覚みたいなものを歌いにいってる感じがあって、「黒真珠集める蛸が棲むという島の女は大甕で寝る」もね、これは壷で寝る蛸と黒真珠を集める島の女が反転しているような感じもあって、異世界みたいなものが、とても短い小説のように読めるというのかな。すごく遠い未来を描くSFみたいな、異世界感があります。
「人の背で触覚動かすゴキブリ眺め休憩を待つ弱電工場」とかも、「弱電工場」ってエレクトロニクスとか、要は高度なテクノロジーのものですよね。そこでもゴキブリが生息しているというような、対比みたいなものがある。教習所のカラスも、たぶんカラスは賢いから車に踏ませて胡桃を割るみたいな話だと思うんだけど、それを普通の道路じゃなくて教習所にしたことで、ショートストーリー的というか、ひとつの閉ざされた世界になりますね。島とか工場とか教習所とか、孀婦岩とかね。特異なニュアンスを持ったゾーンの、異世界に行く感覚があるのかなと思います。
短歌にそこまで慣れてる感じじゃないから、情報の斡旋がややごつごつしているんだけど、でも全体の、集めてきている名詞のレベルではセンスが感じられるから、たぶんもうちょっと長く書くと、面白く書ける人なんだろうと思います。
短歌は名詞のセンスよりも、助詞とかの使い方のほうが難しいんですよね。だから、そっちに慣れていないと、かっこいい単語を集めてきてもその処理が難しくなる。孀婦岩だけで情報量が多いですよね。でも作者はただの岩では満足できなくて、そこまで書かなくちゃ気が済まない。
さっきも言った助詞の使い方とか、短歌特有のやり方は場数を踏んでいけばわかると思います。感覚的には面白いなと思いました。

●「タマゴ」我羅
・五億年旅するタマゴ温めばカンブリア紀の水辺の記憶
・Amazonにカチカチすればあら便利コウノトリ便で赤ちゃん届く
・赤腹のイモリにシッコかけた罰那由多あかときテラの止まるぞ
・茂吉なる「遠田のかはづ」タマゴは目玉一番星を千々に映せり
・幾万のタマゴ元気な素足の娘白き足裏夏は来ませり
・穂村氏の講評
「五億年旅するタマゴ温めばカンブリア紀の水辺の記憶」、どういう感じですかね、個体としてではなく種として、太古からいる種のタマゴなのかなと思ったりしますね。
我羅氏:これは赤ちゃんを妊娠したときに、太古から続く生き物の歴史がお腹の中にいたなという感じで書きました)

ああ、「タマゴ」とカタカナで書いているところにその感じが出ているのかな。
「Amazonにカチカチすればあら便利コウノトリ便で赤ちゃん届く」、Amazonの歌もいますごくある中で、その便利さを拡大解釈して、赤ちゃんも届くと。しかもコウノトリ便で、ペリカン便とかじゃないんだ、という感じですね。こないだ見た短歌では、Amazonで犯罪者向けにアリバイを売っているという短歌があったけど、それは要するにシステムに対するアイロニーで、この歌にもアイロニーがありますね。
あとはどうかな、イモリとか「かはず」は、すごく小さいものと大きなものの対比ですかね。那由多って数の単位だったと思うんですけど。これもAmazonの歌とちょっと似ていて、ミミズにおしっこをかけるとどうなる、とか言い伝えがあったと思うんですけど、そういうものを拡大した感じかな。テラが止まっちゃうんだ、という。地球じゃなくテラというところに、運行している感じが出ていると思います。
池上氏:茂吉の歌は「赤光」からの本歌取りかと思いますが、どうですかね)

「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはず天に聞ゆる」ですね。うーん、カエルの卵が目玉みたいだ、ということで、それが星に例えられているのかな。順番に連想がつながっていって、カエル、卵、目玉、星と続く。これも名詞の連続するイメージで読む感じになるのかな。こういう短歌もあることはあって、横浜たそがれホテルの小部屋、口づけ残り香タバコの煙、みたいな(笑)。僕も名詞が好きなんですけど、名詞が好きな人って馬鹿にされるんですよ。塚本邦雄が最後まで納得されなかったのは、名詞でいくから。短歌の人はそれが嫌いですから。
●「しくみ」高橋小径
・あこがれの人と握手をするための悲しいしくみはこわれていった
・みずうみに櫛を落としてしまえども髪を梳くものは空から降りくる
・霜ばしらわたしの中に立ち初めてあなたでない人に踏みしめられる
・千歳の亀千歳の鶴を恋い先立たれればなみだを流す
・本を閉じふりかえってあなたがいなければわたしも消えてなくなるしくみ
・穂村氏の講評
この最初の歌は、AKBの握手会みたいなものですかね。それが、事件や事故があると、やはりあのシステムには無理がある、みたいな話でしょうか。といってもそのままではなくて、最後の歌も「しくみ」で落としているから、おそらく個人的な恋とかに重ねているんだと思いますけどね。
「みずうみに櫛を落としてしまえども髪を梳くものは空から降りくる」、これはいい歌ですね。何か本歌がもしかしたらあるかもしれない、と思うような。短歌ってこういう感じなんですよ。できる人はすぐできて、僕なんかは何十年やってもこの感じができないんですよね。これは散文じゃないですもんね、櫛が空からやってくる理由など説明は何もないけど、腑に落ちる。これが上手な短歌だと思います。
「霜ばしらわたしの中に立ち初めてあなたでない人に踏みしめられる」、これもわかりますね。霜柱に託したある思いがある。
次の歌も、普通は「ちとせ」と読むところですが、短歌の音数だと「せんさい」と読まざるを得ないでしょうね。恋の歌で、海亀が産卵で涙を流すイメージってありますよね。本当は涙じゃないらしいですけど、あのイメージが受けられているのかな。で、最初の歌が最後の歌「本を閉じふりかえってあなたがいなければわたしも消えてなくなるしくみ」で受けられて終わる。全体として上手ですね。

●「モノクロの空」小田島渚
・乙女らの笑ひつつ食む大福のすべてに苺宿りてをりぬ
・ひと突きにつひに倒れし闘牛の眼に滲むモノクロの空
・キリンの首・頭・胴・足ほどきたれば黄色き風船の棒であり
・島ひとつ双眼鏡に入れ込んで我がものとする少年の夏
・みづうみが雲を小鳥を過らせて狂はせてゐる眠りの時間
・穂村氏の講評
この方も作り慣れていらっしゃいますね。たとえば「みづうみが雲を小鳥を過らせて」という助詞ですけど、我々はどうしても散文が身体に入っちゃうから、散文的に読みやすくしようとすると、「雲や小鳥を」とか「雲と小鳥を」みたいになっちゃうんだけど、「雲を小鳥を」っていう「を」の繰り返しがいかにも韻文で、これをやることで時間経過がランダムになって、湖の上をふいに雲や小鳥がよぎっていく感じが出るので、この助詞の使い方は非常に上手だなと思います。
短歌って内容じゃないから、「乙女らの笑ひつつ食む大福のすべてに苺宿りてをりぬ」なんて、女の子たちが笑いながらいちご大福を食べているだけなんだけど、それを「すべてに苺宿りてをりぬ」という言い方ですよね。いちご大福のことを「すべてに苺が宿っているね」なんて言ってたらやばい人だけど(笑)、こう表現することでひとりひとりに心があって、ひとりひとりに心臓があって、乙女ならひとりひとりに子宮がある、みたいなね、そういう、ある運命を内蔵している感覚が、乙女といちご大福を被らせてくるというのかな。そんなイメージが立ち上がる。
風船の歌も面白いですね。これも、最後のカードを開くと意味がわかる。「キリンの」と入るからキリンの歌だと思って読むしかないけど、「首・頭・胴・足ほどきたれば」でぎょっとするわけですよね。本物のキリンを解剖していると読むから。でも実は黄色い風船の棒で、それをねじったりして組み立ててキリンの形になっていたんだ、ということが最後まで読むとわかる。キリンだから黄色い、だけど、「キリン」「黄色」みたいな音の響きもあって、言葉の組み立ての順序がとても上手ですね。

●「傘寿の旅」座光寺修美
・父母と兄に逢いたい夢をみて
アカシヤの街 大連描く
・この会にでるときわたし若くなる
県ふたつ越え文学講座
・貴方へは母ではないプレゼント
煙のカートンラッキーストライク
・ミサイルの空中撃破スクリーン
戦争でなく戦闘である
・行きますかそうねしばらく考えて
傘寿の旅もわるくないかも
・穂村氏の講評
「この会にでるときわたし若くなる県ふたつ越え文学講座」、「県ふたつ越え」というところがいいですね。本人の熱意が具体的に伝わってきます。あと「ミサイルの空中撃破スクリーン戦争でなく戦闘である」というのも、ある種の批評だと思うんだけど、もしかしたらこれは無人機なのかもしれないし、あるいは人が乗っているとしても、戦争と戦闘は違うという確信がこの人にはある。戦闘というのは敵と戦うことで、戦争というのはたとえば餓死するとか銃後の戦いとか、すべての総力戦みたいになって、敵なんて影も形も見えないのにみんな苦しい、みたいなトータルをたぶん言っていて、いまの人がイメージする戦いは「戦争」じゃなくて「戦闘」なんだ、ということへの警告みたいなものが含まれているのかな、と思いますね。
「貴方へは母ではないプレゼント煙のカートンラッキーストライク」、この貴方というのは誰なんでしょうね。ちょっとわからないんだけど、でも身体に悪いものをプレゼントするという良さがあるような気がします。あと、数あるタバコの中で「ラッキーストライク」という名前のタバコを贈る面白さみたいなものもあるのかな。母だったらタバコは贈らないんですかね。
座光寺氏:常識的な母親だったらタバコは贈らないかもしれませんが、その銘柄がたいへん好きだというからそれをあげる、という事実を述べただけでした)
煙のカートン、という言い方も面白いですね。短歌の大きな要素はリズムとか響きですので、「煙のカートンラッキーストライク」という下の句の面白さがありました。

※以上の講評に続き、後半では池上氏の司会のもと、穂村氏の最新歌集やさまざまな歌について、お話していただきました。その模様は本サイト内「その人の素顔」にてアップいたします。
【講師プロフィール】
◆穂村弘(ほむら・ひろし)氏
歌人。1962年、札幌市生まれ。上智大学文学部英文学科卒。86年に連作『シンジケート』で角川短歌賞次席。89年に第1歌集『シンジケート』、92年に第2歌集『ドライ ドライ アイス』を刊行して90年台のニューウェーブ短歌運動を推進する。2002年に初エッセイ集『世界音痴』を刊行し話題となる。08年短歌論『短歌の友人』で伊藤整文学賞、17年『鳥肌が』で講談社エッセイ賞受賞。18年、17年ぶりの第4歌集『水中翼船炎上中』(講談社)を刊行し若山牧水賞を受賞。日本経済新聞の歌壇選者。

●第1歌集「シンジケート」(沖積舎)※角川短歌賞次席
https://www.amazon.co.jp//dp/480601110X/

●第2歌集「ドライ ドライ アイス」(沖積舎)
https://www.amazon.co.jp//dp/4806011118/

●第3歌集「手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4094060227/

●第4歌集「水中翼船炎上中」(講談社)※若山牧水賞受賞
https://www.amazon.co.jp//dp/4062210568/

●エッセイ集「世界音痴」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/409408441X/

●歌集「短歌の友人」(河出文庫)※伊藤整文学賞受賞
https://www.amazon.co.jp//dp/4309410650/

●「鳥肌が」(PHP研究所)※講談社エッセイ賞
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83051-3

●第二エッセイ集「もうおうちへかえりましょう」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00B9CAKVW/

●「ぼくの短歌ノート」(講談社文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4065118336/

●「短歌ください」(角川文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/4041026040/

●「はじめての短歌」(河出文庫 ほ6-3)
https://www.amazon.co.jp//dp/4309414826/

●「野良猫を尊敬した日」(講談社)
https://www.amazon.co.jp//dp/4062203952/

●歌書「短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたい人のために」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4094088695/

●近現代詩歌 池澤夏樹=個人編集日本文学全集
https://www.amazon.co.jp//dp/4309728995/

●「もしもし、運命の人ですか。」(角川文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4041026245/

●「ラインマーカーズ The Best of Homura Hiroshi」(小学館)
https://www.amazon.co.jp//dp/4093874492/

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