「ご自分の意識と、作品の距離感をつかむためには、自分をある程度突き放して書く必要があります。自分に同情して書いていない作品こそ、読んでいて胸に迫るんです」

 4月の講師には、吉村萬壱(よしむら・まんいち)氏をお迎えした。
 1961年愛媛県生まれ、大阪府育ち。1997年、「国営巨大浴場の午後」で京都大学新聞社新人文学賞受賞。2001年、『クチュクチュバーン』で文學界新人賞受賞。2003年、『ハリガネムシ』で芥川賞受賞。2016年、『臣女』で島清恋愛文学賞受賞。
 破壊的かつ斬新な作風で知られる。

 司会をつとめる黒木あるじ氏(本講座出身作家)がまずマイクを取って講師を紹介し、続いて吉村氏があいさつをした。
「みなさんこんにちは、吉村萬壱と申します。山形に来るのは2回目です。前回は、姉妹講座だという『せんだい文学塾』で3年前に講師をやらせてもろたんですが、そのときは仙台で宿が取れませんで、黒木先生のおうちに泊めていただいて、朝まで飲んだという思い出があります。山形は2回目なんですけど、いいところですね。さっきご馳走になったおそばもおいしいし、最近は朝倉さやさんという歌手(山形市出身)のファンになりました。彼女はおそらく日本一歌がうまいと思いますね。それから、ここの会場に小松均さんという画家(大石田町出身)の作品があってびっくりしました。大好きな画家なんですけど、山形の方やったんですね。あと、ドイツ語辞典「キムラ・サガラ」で有名な相良守峯(さがら・もりお)先生も山形なんですね。ここの図書館に来て知りました。そういう方々とゆかりのある、この山形のみなさん、今日はよろしくお願いします」

 今回のテキストは、3名から提出された小説が4本。
菅弥生さん『地下二階』(18枚)『ガール・ミーツ・マダム』(17枚)
安孫子啓子さん『憧憬』(38枚)
塩崎憲治さん『魚鬼(イトウ)』(68枚)

菅弥生さん『地下二階』(18枚)『ガール・ミーツ・マダム』(17枚)
【地下二階】
 雪、学校、お母さんとの関係、反抗期……「暗い部分」が見え隠れする。そして、「地下二階」。そこは、主人公の中のもっとも深い「暗闇」に続いている。
 『地下二階』は、地下二階へ下りていき、扉を開くところで終わります。
 ここで扉の向こうまで行くことが長編へと続く道である。

 扉の向こうには、何が待っているのか。
 扉をくぐり、先へ進むのは、苦しいたたかいとなる。それはちょうど、自身の胸のうちの、地下へと入り込んでいくこと。長編になる可能性を示唆して、現在書かれているところまでを、まさにオープニングとして、ここから扉の向こうの世界へ行くのです。冒険を乗り越え、最後には帰ってくるでしょう。(あるいは向こうにずっと行ったまま、帰れないのかもしれません)

【ガール・ミーツ・マダム】
小学校低学年から楽しめる児童文学ミステリー。なかには小学校高学年から、いえむしろ思春期の少年少女に読んでもらいたいストーリー。こちらは純文学寄りのファンタジーミステリーとしても捉えられるように描いた。時間を飛び、大切な瞬間を(そして大人たちはきっと信じようとしない時間を)切り取り、描き出し、そして子供たちに真っ直ぐに語りかける。描かれなかった時間を、物語を、読み手は自然と空想し、気付けば『ガール・ミーツ・マダム』は読み手それぞれに全く違う風景をもつ、無限の豊饒さをもてるよう祈りながら書いた作品。

・黒木氏の講評
 2作品とも作者なりの世界観があり「非常に個性的な作品だな」と感じました。
 さて、作品とは直にかかわらない部分から指摘させていただきたいのですが、このテキストに記されている「あらすじ」は、文庫本の裏表紙に載っているような、いわゆる「紹介文」を意識して書かれたのではないかと思います。しかし今回のテキストで求められているのは「梗概」だと思われます。梗概の場合は、このような煽った書き方ではなく、ストーリーをまとめたものを書くのが一般的です。そこは今後、注意していただけたらと思います。
 先ほど「世界観がある」と申し上げました。しかし、それを表現するにはいずれの作品も、分量がやや短いかなと感じました。主人公や登場人物がその世界に携わることで、それぞれがどのように変化していったか、もしくは変化しなかったのか。それらを描くには、ちょっとボリュームが厳しいように思います。
 それから、2作品ともフォントや体裁が大きく異なっていますが、そこに何か意図はあったのでしょうか。一行空きも多用されていますが、それによって作品中の時間や空間に何らかの変化が生じているわけでもありません。そう考えると、狙ったにせよ無意識にせよ、頻出する一行空きやめまぐるしく変わるフォントは、あまり効果的とはいえないように思います。句読点の打ち方にも、意図していない混乱が見受けられます。そのあたりをいま以上にご自分で整理してからアウトプットされると、読者に届けたい部分が届く作品になるのではと思います。

・吉村氏の講評
 まず『ガール~』のほうから。
 この物語は、普通の人類とは違う、特別な力を持った一族の女の子が、その力に気づいていくファンタジックな話なのか、それとも、少女時代にありがちな、自分を肯定できない自信のなさみたいなものを、こういう話をすることで乗り超えてもらいたいという、いわばおばあちゃんの知恵袋的な話なのか。そこがちょっとわからなかったんですよね。そこが、いわゆるファンタジー的な魅力のひとつにもなり得るんですが、赤い実のピアスや、ミカ・コーネリアスという名の犬や、それから銃を撃つというモチーフが、いったい何なのか。説明というか、ストンと納得できるようにしまいをつけてくれないと、読者としては、ほっぽり出されたような気がします。
 小説っていうのはね、どんな大風呂敷を広げてもええと思うんですよ。でもね、必ずその大風呂敷は回収しないと駄目なんです。でないと、読者はほっていかれる。この小説は、回収の作業が充分になされていないので、「えっ?」というところで終わってしまう印象があるんですね。
 でもね、この小説の語りというのは、次どうなるのかちょっと読めない、予定調和的でない語りなんですよ。そこは強みなんだけど、その強みがアダとなって出てしまっている。普通では考えられないような発想はいいけど、もうちょっと回収してほしい。
 それから『地下二階』のほうです。
 主人公の「私」が住む家があって、それが地上二階地下二階で、自分と妹の部屋が二階にあって、おばあちゃんのストーブが一階にあって、家族の寝室が地下一階にあって、地下二階には外の世界へ通じる扉がある。ということで合ってますか? このフロアマップがね、読んでいてなかなか描けないんですよ。そこがちょっとしんどかった。ええところがいっぱいあるのに、その辺が詰められてないので、作者の言わんとすることが崩れてしまうんですね。
 どうしても少々のミスは出るもので、それはしゃあないんですけど、文学賞の選考委員がそこだけで落とすということはありません。たとえば100枚の賞に、300枚送ったとしますやん。それがボツになるかというと、もしめっちゃ面白かったら、手放すわけないじゃないですか。賞には落ちるでしょうけど、何としてでも本は出しますわ。だからそれはええんですけど、この作品は『地下二階』というタイトルで、家の何階に何があるのかということが重要視されているにもかかわらず、その描写が精確さを欠く。これでは駄目です。もしこれが、何階がどうなってるかという、情景が目に浮かぶようであれば、全然変わってきます。

 この作品はね、あと二回ぐらい書き直す必要があった。でも、外にアウトプットしたその勇気は、僕は高く高く評価したいと思います。
 それからもう一点だけ。扉の向こうへ行くんだ、という強い意志を持つ、主人公の気概は伝わってくるんですけど、地下二階の扉を開けたら、土ですから。おそらく、この地上二階と地下二階というのは、表層意識と深層意識を象徴しているんでしょうけど、自分の精神の中にある地下と、建物の地下の整合性は、しっかり解決しておくべきです。
 ご自分の意識と、作品の距離感をつかむためには、いろいろ方法はあります。まずは他人に読んでもらう。もうひとつは、三人称で書く。自分をある程度突き放さないといけない。それが、小説家として最も基本的な条件やと思いますわ。菅さんの場合は、その距離が若干近い。そこを離すのが、一番の課題やと思います。
 野坂昭如さんの『火垂るの墓』(新潮文庫)を読むと、2頁読んだだけで涙があふれてくる。なぜかというと、あの小説はかなり突き放して書いてるんですね。朝になったら妹が死んでた、どうやって焼こうかな、みたいなことを書いてあるだけなんですけど、そこに人間の愚かさや戦争の悲惨さみたいなものが、凝縮されて迫ってきます。それは野坂さんが自分に同情してないからなんですよね。あのような、獣が吠えたような文体で、突き放したように書いて、あれだけのものが出るんですから。いかに自分のことを突き放して書けるか、そこを頑張ってください。

安孫子啓子さん『憧憬』(38枚)
 康太は地方銀行に勤める銀行員だ。康太には健一郎という同期がいた。彼は、既に課長代理まで昇進しており、入社数年で康太との差は歴然だった。しかも、容姿的にも康太より長身でイケメン、康太にとっては嫉妬する存在だった。そんなときに康太が残業帰りに橋の上で老いた占い師に「同期の健一郎と体を入れ替えてやる」と言われる。半信半疑の康太だったが、次の日の昼休みの後に本当に康太と健一郎は入れ替わってしまう。最初は戸惑ったものの、康太は自分の仕事の能力が健一郎より優っていることを確信し始める。また、健一郎の不正を暴こうと仕事に打ち込む康太だったが、次第に自分の人生がこのままになることを願い始める。

・黒木氏の講評
 まず、この講座ではよく言われる指摘かと思いますが、タイトルに関してもうひと工夫あってもいいかと思います。『憧憬』という単語はやや抽象的に過ぎて、このタイトルでなくてはこの作品は成立しない、という気概が感じられない。タイトルというのは作品の顔、読者が中身より先に目にする箇所ですから、考えるだけ考えていただいても損はないかと思います。

 一番気になったところとしては、人称でしょうか。この作品、一人称と三人称がブレているんですね、とくにラストで、それまで「俺」として語り手をつとめていた康太が死んでしまってから、語り手が誰なのかまるでわからなくなってしまう。叙述トリックのように「それこそが物語の鍵だ」というならば分かるんですが、そういうわけでもない。こういう時こそ、先ほど申しあげた一行空きを入れるなどすると、読者が不必要に混乱せず読み進められるのではと思います。また、主人公の自称が「俺」と「僕」で混在しているところも目立ちますね。このあたりは推敲をいっそう丁寧にされると良いのではないでしょうか。
 全体的には、文章がのっぺりしている印象を持ちました。これは多分、地の文で説明してしまう部分が多いからではないでしょうか。会話文や登場人物のアクションで伝えるべき心の機微や状況の変化が、すべて説明文になっているんですね。主人公がどのように動いているのか、具体的なアクションを描写すると、読者が話に入り込めるのではないかと思います。

・吉村氏の講評
 エンターテインメント小説として読みました。単純に面白かったです。
 最終的に、健一郎がいいやつではなかった。康太は、健一郎のたくらみに気づかないまま死んでいった。っていう感じがね、康太の惨めさみたいな余韻が残って、いいラストやと思いましたね。
 適材適所というか、そのポストにつけばできちゃう仕事ってあるじゃないですか。自分の能力がないせいだと思っていても、ひょんなことから上のポストにつけられたら、仕事できちゃうときってあるんですね。おそらく、上のポストっていうのは高いところにあるんですよ。そこから見れば、低いところにいたときは見えなかったものも見えるんですね。僕は27年ぐらい教員やってたんですけど、学年主任に選ばれたときは「絶対無理です」って断ったんですよ。でも選挙やから、しゃあなしに学年主任のポストに就いたんですね。そうしたらね、下のポストにおったときとは全然違う風景が見えるんですよ。指示が出せたりしちゃう。だから、この話はリアルやなと思いましたね。
 この小説の面白いところは、その逆もあるところですね。高いポストにいた人が、下のポストに行ったら、仕事ができなくなっちゃうっていうね。今までに読んだことないような内容が盛り込まれてて、楽しく読めました。

 ただね、ものすごくたくさん瑕がある小説ですね。
 人称の混乱は、ラストどころか3頁目ぐらいから大混乱です。「康太は」という三人称も「俺は」という一人称もあるし、「僕は」になっているところもある。これは統一したほうがいいです。読者というのは意味を考えちゃうんです。丁寧に読む人ほど、つまづきます。
 それから、クセがありますね。たとえば「五期ほど上の先輩」という表現がありますが、なぜここに「ほど」が要るのか。ほかにも「俺たちの中身が入れ替わってから三日ほどが経とうとしていた」、これは「三日」でええやないかと思うんです。それに「あの宴会から一週間ほど経ったころ」という表現もある。「ほど」が多いです。そんなに長い期間じゃないところで「ほど」を使って断定を避けるのは、この作者は少し腰が引けているのかな、そんな印象を読者は受けると思うんです。ここは言い切ったほうが気持ちがいいです。
 あとですね、健一郎のことを「イケメン」と表現していますね。それから、健一郎の婚約者については「スレンダー美人」と書いてあります。こういう表現は、日常会話の言葉ですよね。「美人」と言われたら、読者はもうお手上げなんですよ。自分なりに美人を想像するんですけど、そうやって読者に負担をかけるんじゃなく、こういう顔立ちのこういう男なんだ、こういう女性なんだ、ということを描写で表現する。難しいんですけど、こんな表現を待ってました、みたいなのができたら、すごくポイントがアップするので、こういうところに力を入れてください。

塩崎憲治さん『魚神(イトウ)』(68枚)

 戦争前夜の函館港で手配師をシノギとする叶周平は、遊郭の女・菊代と恋仲になる。周平は錠破りの技を菊代に教え、廓の裏門から逃亡を図る。
 二人は羊蹄山の麓の集落に身を隠し、イトウ釣りを生業として生き延びる。菊代は貰い子の娘・幸を育て上げるが、激流で命を落とす。幸は滝壺で茜色の魚鬼に遭遇し、母の化身と信じる。
 ある日、鉱山のタコ部屋から美しい若者・勇が逃げてくる。穏やかな暮らしも束の間、勇を虐待していた棒頭が追ってくる。
 勇は、棒頭との真剣勝負に挑むが、狡猾な棒頭に返り討ちにあう。棒頭は止めを刺そうとする寸前、勇がひそかに心を寄せる幸を犯したと囁く。燃えたぎった勇の憤怒が、奇跡的に形勢を逆転させるが、悪はどこまでも強い。
 絶体絶命の修羅場、最後に現れたのは、茜色の魚鬼に護られた幸だった。

・黒木氏の講評
 講座の常連さんだとうかがいました。そのためか、文章の運びはとても巧いと思います。物語の起伏もほころびがない。非常にお上手でいらっしゃる。ただ、気になるところがないわけではありません。
 冒頭、「廓の毒を洗い流すかのように、白波が静かに蠢いていた」とあります。一読すると流麗な文章ですが、よくよく考えると状況がぱっと浮かんでこないんですよ。廓ってことは遊郭かな、白波と書いているからには海沿いなのかなと想像はできますが、その後もしばらく舞台に関する情報が提示されない。戦前の函館と判明するのはかなり後になってからのことです。もちろんそれでも構わないんですが、この作品においては特に伏せる意味がない。なので、書き出しは、今から始まる物語がどんな話なのか、もうすこし見えるようにしたほうが良いかもしれません。
 あと、遊郭というから古い時代の話なのかと思っていると、「ヘドロ」という、公害が社会問題になった時代以降に広く使われるようになった、比較的新しい言葉が出てくるのもやや戸惑います。この時代には誕生していなかった、もしくは一般的とは言い難かった単語が出てくるのは、作者に明確な意図がないのであればオススメはできません。ドラマの『水戸黄門』で、高橋元太郎演じる「うっかり八兵衛」が「御隠居、この宿はサービス悪いですね」というセリフを口にしてしまった……という都市伝説がありますけれど、それに近いすわりの悪さを感じます。物語に没入していた読者が醒めてしまうんですね。
 あと、僕は過去にマタギの熊狩りを取材させていただいたことがあります。獣と対峙する緊張感はただならぬものがありました。その経験を踏まえて申しあげるなら、この作品のヒグマを撃つ場面は、やや淡泊かなと感じます。視覚情報だけではなく、嗅覚や聴覚も交えた濃密な描写になれば、クライマックスの格闘の場面などは、もっと血なまぐさく真に迫ったテンションになるのではないかな、と感じました。

・吉村氏の講評
 初読しての印象は、ただならぬものを読んだ、というものでした。二度目も面白かったんですけど、僕のざくっとした印象で言いますと、前半は、個人に対して、他人や自然が、抗しがたい力で押し寄せてきて、どうしようもない中でもなんとかくらいついて生きている人の姿が描かれているな、と思いました。

 棒頭が幸を犯して、それを主人公と勇が追って、復讐する。勇には、棒頭におもちゃにされてずたずたになった自分のプライドを回復させるという、人生の課題みたいなものも乗っかってきて、決闘のシーンになるわけですけど、どうもね、電車の中から川辺での決闘、幸がつぶてを投げて、イトウが出てくるというあたりになるとね、展開の仕方が、前半のリアルさに比べて若干、作り物っぽい感じがしたんですね。
 後半の部分が、もし前半のリアルさを持って描かれていれば、これはたいへんな作品になったと思います。
 もう少し具体的に言いますと、列車に乗って、棒頭に刃物を突きつけますよね。そこでね、20頁の後ろぐらいに「周平は男の上着を引き剥がした。後ろ手を上着の袖で縛り上げ、わき腹にドスを当てると、それで覆った」と書いてありますね。でも、あとのほうを読んでいくと、縛ってはいないようなんですね。ここの描写は正しくない。若干のミスですね。ここをうまいことクリアできていたら、リアルさが立ち上がってきたと思います。
 あと僕の好みかもしれませんが、後半の畳み掛ける場面はね、周平の三人称的一人称というか、周平の考えが入っちゃってますよね。ここをもう少し引いて、周平の考えを入れずに登場人物を動かしてみてもええんやないでしょうか。若干ね、周平にすごい都合のいい形で終わってるわ、という感じがあったので、そこはね、客観描写的な形でいったほうが、効果が出るかもしれないなと思いました。ハードボイルドっぽくやったほうが。
 ひょっとしたらね、周平はもう棒頭に殺されていて、死にゆく意識の中でこれを夢想したんちゃうか、というふうにまで読めてしまったので、純粋に、客観的に書かれたほうがいい。ここまで人物描写をしてきて、人間関係も読者はわかっているので、お互いに対する気持ちとかはもういらないと思うんですよ。たとえば、勇が棒頭にどれだけの恨みを持っていたか、ということも、読者は充分にわかっているので、その辺の説明は全部抜きで、客観的にこの、幸も含めた3人の死闘を冷徹に描いたほうが、効果があがったと思いますね。
 そんな感じですけど、非常に面白かったですね。僕は北海道のことは全然知らないので、地図を見ながら読ませていただいたんですけど、羊蹄山のどっち側に何がある、とかもすごく精確に描写されていて、非常に楽しませていただきました。
 読者が持つイメージに、作者が描こうとしたシーンがほとんど狂いなく結びつくように書かれている。こういうのが読書の楽しみなんです。だから、すごく気持ちよく読めました。

※以上の講評に続き、後半では黒木氏の司会のもと、作品のオリジナリティについての考え方や、生命観、宇宙観にいたるまで、幅広くお話していただきました。その模様は、本サイト内「その人の素顔」にてアップいたします。

【講師プロフィール】
◆吉村萬壱(よしむら・まんいち)氏
 1961年、愛媛県松山市生まれ、大阪市育ち。教師のかたわら、2001年に文學界新人賞受賞作「クチュクチュバーン」でデビュー。03年「ハリガネムシ」で第129回芥川賞受賞。「芥川賞の賞味期限は10年しかない」と編集者に言われ、教員を退職し専業作家に。16年、『臣女』で第22回島清恋愛文学賞を受賞する。そのほかの作品に『バースト・ゾーン』『ボラード病』など。独特の作風で純文学とエンターテインメントの垣根を超えた作品を生み出している。今年度より、阿波しらさぎ文学賞選考委員を務める。

●クチュクチュバーン  (文春文庫)  ※文學界新人賞受賞  
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●ハリガネムシ   (文春文庫)   ※芥川賞受賞
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●臣女   (徳間文庫)  ※島清恋愛文学賞受賞
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●バーストゾーン  (ハヤカワ文庫JA)
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●ボラード病  (文春文庫)
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●虚ろまんてぃっく  (文春e-book)
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●ヤイトスエッド   (徳間文庫)
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●独居45   (文藝春秋社)
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●うつぼのひとりごと  「亜紀書房」
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●回游人  (徳間書店)
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●生きていくうえで、かけがえのないこと  (亜紀書房)
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●流しの下のうーちゃん  (文春e-book)
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