「恥ずかしいことを歌うのが短歌なんです。批評性とか羞恥心のある人は、短歌には向いていないんですよ」

 8月講座には、歌人でエッセイストの穂村弘氏を講師としてお招きした。

 1962年、北海道生まれ。1986年に連作『シンジケート』で角川短歌賞次席。1989年に第一歌集『シンジケート』(沖積舎)を、1992年に第二歌集『ドライドライアイス』(沖積舎)を刊行。90年代のニューウェーブ短歌運動を推進する。2002年には初のエッセイ集『世界音痴』(小学館文庫)、第二エッセイ集『もうおうちへかえりましょう』(同)を刊行し、エッセイストとしても高い評価を受ける。2008年、短歌論『短歌の友人』(河出書房新社)で伊藤整文学賞を受賞。2017年には『鳥肌が』(PHP研究所)で講談社エッセイ賞を受賞した。現在の歌壇において、もっとも注目される歌人・評論家の1人である。

 講座の冒頭では、世話人をつとめる池上冬樹氏(文芸評論家)がまずマイクを取り、講師を紹介した。

「今回は穂村弘さんをお迎えしました。毎年夏に、せんだい文学塾か山形講座にお招きするのですが、今年は山形講座です。今日は、12時過ぎの新幹線でいらしたので、一寸亭(ちょっとてい)という、この会場から近くにある、冷たい肉そばのおいしい店にお連れしました。喜んでいただけましたか」

 続いて穂村氏のあいさつ。
「穂村弘です。冷たい肉そばは、おいしかったですね。毎日食べたいです(笑)。僕は、気に入ったものを毎日食べ続ける習性がありまして。飽きる、っていう感覚が鈍いんですね。だから、朝昼晩みたいなのもいけるし、毎日でもいけます。今日はよろしくお願いします」

 今回のテキストは、13名から提出された短歌を取り上げた。
 https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8720179
・高橋道子さん「夏の救急箱」(短歌5首)
・松本雪佳さん 短歌5首
・小田島渚さん「結合のとき」(短歌5首)
・ナイス害さん 短歌5首
・跡邉希美さん 短歌5首
・船津南帆さん 短歌5首
・うにがわえりもさん「眼鏡屋の手紙」(短歌6首)
・河田充恵さん 短歌5首
・古間恵一さん「夏のフィギュア」(短歌5首)
・鴨野ユーリーさん「凪のその先」(短歌5首)
・蜂谷尚美さん「夏への執着」(短歌5首)
・渡辺有さん 短歌3首
・座光寺修美さん「友へ」(短歌5首)

◆1.高橋道子さん「夏の救急箱」
 スイミングバスに乗る子ら誇らしげかつて私もそうであったよ
 あたくしは真夏生まれでありますの十七歳の真夏も二回
 滅菌が切れたガーゼと処女でない娘を同じに扱うなかれ
 朝な夕な眼球に触れるこの指よ今までいろいろ触ったけれど
 何らかの病気なのではなかろうかスマホ片手に便座にいる夜

・穂村氏の講評
 まず、タイトルが面白いなと思いました。「夏の救急箱」。救急箱に春も夏もないような気がするけど、季節のないものにあえてつけた感じで、そこにちょっと面白いニュアンスが出たのかなと思います。
 それから、僕がいいなと思ったのは、2首目ですね。「あたくし」という一人称がまず面白い。「あたし」でも「わたくし」でもなく「あたくし」という、ここにもあるニュアンスを出そうとしている。上品なんだか蓮っ葉なんだかわからないような一人称ですよね。そういう微妙なところへも意識がちゃんと行き届いています。「ありますの」という言い方とか。「十七歳の真夏も二回」という下の句はユニークですね。一度きりの十七歳の夏、という慣用句みたいなものが世の中にある、ということがこの裏にあります。短歌ってすごく短いから、本歌取りのように、歌の外部にあることと、実際に短歌として書かれた言葉がどのように響き合うのか、ということがやっぱり重要になってきます。この下の句を面白いと思うためには「一度きりの十七歳の夏」という表現にどこかで出会っていなければ、だから何なんだという話になってしまいますよね。それはある意味ではリスクでもあるんだけど、短歌というのは伝統的にそのリスクを積極的に引き受けてきました。
 本歌取りという過去の歌へのオマージュのような作り方もあるし、旅枕というものもあって、ある地名には物理的な意味だけではなくて、歴史的に積み上げられてきたイメージを持たせるわけです。「福岡」と「博多」は違う、みたいなね。地元の人にはそういうイメージがあるし、京都だって、旅行者には「上京(かみぎょう)、下京(しもぎょう)」みたいな言い方はピンとこないわけですよね。でも、そうやって歴史的に積み上げられてきたものを、重層的に活かしていこうと。なぜならば、短歌はとても短い言葉でひとつの世界を作るからです。そういった特性がここからは読み取れます。普通のみんなは「一度きりの十七歳の夏」だけど、あたくしは二回ある、ということですね。
 小野茂樹という歌人に「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ」という有名な歌があります。それも恋愛の歌だと思うんですけど、ひと夏をともに過ごした恋人の、無数の表情が自分の中に焼き付いているんだけど、その中のたったひとつの表情をもう一度、今してくれという、非常に奇妙なリクエストです。それはつまり、一瞬が永遠につながるように、たった一つの表情が、その背後にある、彼女のすべての表情につながっているというような感受性です。非常にまぶしい歌で、戦後の相聞歌で人気投票をやるとたいてい一位になりますね。33歳で、若くして交通事故で亡くなってしまいましたが(1936~1970)。
 それから、その次の歌も面白いです。「滅菌が切れたガーゼと処女でない娘を同じに扱うなかれ」。これってアイロニーだと思うんですけど、僕にはよくわからないんですね。なぜここにアイロニーをはたらかせるのか。アイロニーって僕のイメージでは、常識とか権力とか、そういうものに対抗する武器という感じがあるから、なぜ「処女でない娘」にそんな難癖をつけてくるのかわからない(笑)。だけど、伝統的にあることではあるんですよね。有名なのは森鴎外の短歌で、「処女はげにきよらなるものまだ售(う)れぬ荒物店の箒(ははき)のごとく」ですね。なぜ偉大な文豪がこんな意地の悪いアイロニーをきかせるのか、僕にはわからないんだけど(笑)。この歌をまた、塚本邦雄という有名な歌人が大絶賛していて、森鴎外の歌について言及するときには必ず真っ先にこの歌を引用するという。だから、何か世の中の偉いおじさんたちが、よってたかってそうなる感覚がわからないんだけど、池上さんはわかりますか?(笑)

・池上氏 すごい皮肉というか、意地悪だなと思いましたね(笑)。作者の高橋さんにもお話をうかがってみましょう。「夏の救急箱」の狙いは何でしたか?

高橋氏 そうですね、実際に私が先日、救急箱の整理をしましたところ、本当に滅菌期限が切れたガーゼがあって、これまだ使えるけどどうしようかな、みたいな気持ちになりまして。そこでムラムラと、世の中のおじさんに対する怒りが沸いてきまして(笑)この歌を作りました。
 夏の景色の中で、指を切ったり転んだりして、救急箱に帰結するような歌を5首、詠んでみました)

・穂村氏 「朝な夕な眼球に触れるこの指よ」というのは、どういう意味かわかりませんでしたが。

高橋氏 これはコンタクトレンズのことです。朝はめて、夜とるんですけど、何か、眼球に触れるってすごいことですよね。眼球って本当に大事なものなのに、一日に何回も触って大丈夫なのかな、それこそ、誰が触ったかわからないものにも触っているのに。ということがありまして。下の句はもうひとつ考えていたんです。「江戸時代にはなかったことです」にしようかとも思ったんですが)

 いやあ、それはないほうがいい(笑)。
 コンタクトレンズって、わりと人気のある題材なんですね。俵万智さんにも「本当はおまえがみんな見てたのね小さき丸き粒にささやく」という歌があります。あと、埋葬のときにコンタクトレンズをどうしよう、天国で見えないと困るんじゃないか、みたいなのもよく見かける。僕もド近眼なので、眼鏡をどうしようかな。天国では視力も治るんですかね(笑)。
 そんな感じで、よく歌われるものがあるんです。家具の中でいうと、椅子はよく歌われるけど、箪笥や机はそれほどでもない、とか。椅子は、そこに座るべき人の不在を象徴したりするんですね。大西民子さんの『まぼろしの椅子』という歌集が典型なんですけど。机や箪笥に比べると、椅子はよく出てきます。めったに歌われないものと、やたら歌われすぎるぐらい歌われるものがある。コンタクトレンズは、人気ですね。そういった題材の場合は、新鮮なアプローチが必要になります。パターンがありますからね。

◆2.松本雪佳さん 短歌5首
 僕たちは言葉と声を手に入れてわかりあえてるつもり続ける
 血管の固くなりたる右腕で書いて数えて君と繋がる
 本当は言いたくないんだこんなこと だからといって言わないのもね?
 囚われの美女を助けに馬車で行く窓蹴破って待っていて
 或る夜中大きな虹が出たけれど誰もみてない何時迄もある

・穂村氏の講評
 この最後の歌が、僕は面白いと思いました。夜中に、虹に気がついて「すごいな」と思うんだけど、昼間でも、虹を見て、誰も気づいてないふうだと、何か言いたくなりますよね。でも、今の距離感では、街中で「虹ですよ」と言うのはちょっと勇気がいるというか。『サザエさん』みたいな世界の中なら言えるんですけど、現実ではちょっとね。もしくは、昭和40年代ぐらいまでは言えたかもしれないけど、今はちょっと変な人みたいになる。逆に、電車に乗ってるときに「右手に虹が出ています」みたいなアナウンスが流れたことがあって、そのときは何かイイ話みたいな感じですよね。車掌さんが気を利かせて、みんなに教えてくれたみたいな。
 「真夜中の虹」というところに、まぼろしのような、幻覚のようなイメージがありますね。もしかするとこれは、誰も見ていないからこそいつまでもそこにあるのではないか、という逆説が感じられる。自分しか見ていない真夜中の虹が、いつまでもあるというのは、もしかしたら自分の心の中にだけ出ている虹かもしれない。もっと言えば、幻覚って言ったけど、ひとりひとりが見ている現実って本当はそういうもので、自分は現実だと思っているんだけど、本当は自分だけがそれを見ている。ひとりひとりが、全然違う虹を見ているんじゃないか、というような、ある種の普遍性が、この歌から直観的に感じられます。下の句が優れているんでしょうね。「誰もみてない何時迄もある」。上の句も、童話っぽい入り方というんですか。「昔々あるところに」みたいな。他ジャンルの定型を持ってきているような。たしかに、短歌的な始まり方ではないですけどね。

・池上氏 松本さんは、いつもこうやって短歌を作っているんですか。

松本氏 今までは俳句を作っていたんですけど、前回の穂村先生の講座を受けてから、短歌もやるようになりました)

 そうですか。穂村さんに、今回の13人の短歌はどうですかと聞いたら、「みなさんうまいですね」と言ってくださったんですよ。
 僕はね、2首目の「血管の固くなりたる右腕で書いて数えて君と繋がる」がいいと思いました。時間の経過と紆余曲折があった感じの関係が、うまく出ていますね。

・穂村氏 これも面白い表現ですね。血管が固いか柔らかいか、って自覚できなくないですか。医学的に検査を受ければわかるんだろうけど、自覚できない領域のことが書いてある。そこが面白いなと思うんですよね。

◆3.小田島渚さん「結合のとき」
 なんとなく我の面影あるやうな精子卵子の結合のとき
 爆弾を密かに仕込む計画で解体すべしプリンアラモード
 誕生日近しと二人はしやげども四年の月日挟まりてをり
 これやこの二十一世紀のバスに雨漏りしたることのやすらぎ
 夢のなか母はメロンを摘むらしく切り分けられて今朝も並びぬ

・穂村氏の講評
 これは2首目がいいかな。ちょっと戯画的なタッチなんだけど、もしかするとこの「プリンアラモード」は、「プリン・ア・ラ・モード」とナカグロを打ってもいいのかな、と思いますね。そのほうが表記的に、解体する感じが出るから。短歌ってごく短いものだから、リズムとか表記が重要なんです。ひらがなにするか漢字にするか、カタカナにするか、とか。
 最後の歌も面白いですね。夢の中で調達してきたメロンが、現実に、無限にメロンが出てくるんですかね。いいお家ですね(笑)。

・池上氏 これは不思議な愛情というか、母と娘の情感が伝わってきますね。

・穂村氏 メロン、というのが新鮮ですね。短歌では、リッチなものって避ける傾向があるんです。反感を持たれるから(笑)。おまえんちでは毎日メロン食ってんのか、みたいな(笑)。だから、僕はよく言うんですけど、運転手つきの車で銀座の寿司屋に行った、という短歌は1首も存在しないんですよ。貧乏のほうが好まれる。だから、この歌は僕にとって非常に新鮮です。歌人が普通に作ると、実際にはメロンだったとしても、もうちょっと庶民的な果物を出してくるでしょう。
 この人は、メロンといいプリンアラモードといい、いいものを食べてますね(笑)。
 バスが雨漏りする歌も面白いですね。これは昭和の時代だったら「安らぎ」という感受性はまったくなくて、単に嫌なことですよね、雨漏りとか停電とか。でも今は、社会の機能の高さが我々の感受性を追い越しちゃっていて、怖いところがある。家電とか凄すぎて、追い抜かれて逆に圧迫されて、自分だけが遅れているような。スマホを使えない年齢の人とかは、すごくそれを感じていると思うんですよ。自分以外の人がみんな、電車の中で奇妙な板を見ているというのは、非常に気持ち悪いと思うんだけど、でも多かれ少なかれみんなそんな気持ちになっていて、昭和のころならあり得なかった感受性をみんな持つようになっている。今のバスが雨漏りするのが、むしろ安らぎだというね。自分たちのほうが追い越された時代の感受性で、そこが面白い。だから「二十一世紀の」とわざわざ書かれているのだと思います。

◆4.ナイス害さん 短歌5首
 夏は皆ほんのり顔が濃くなるね亜熱帯化の先進国で
 あの地味な電動車椅子にある隠し機能でプロポーズする
 内臓をもみもみしないと気持ちよくなれない人の給料日の夜
 まるで俺の精子のスローモーションのように国道を渡ってるヘビ
 蛍光のペン先強く押し込めば漏れ出るいのち セックスレスです

・穂村氏の講評
 ヘビの歌の、この感受性はなかなか面白い感覚です。国道というのも変なリアリティがあっていい。これが、泳いでるヘビだと、ちょっと精子のイメージと重なりすぎになりますからね。
 次の、セックスレスの歌も面白いんだけど、僕だったらこれは、そのペン先で「セックスレス」という文字を書いた、みたいにしますかね。そうすると、ひとつの短歌の中に位相がもうひとつできる。
 全体的に、表現の意図がすごくある人なんだと思うんです。多分、それが見えすぎるのが弱点ですね。表現意欲や意図がすごくある、ということが見えすぎるのを、短歌はわりと嫌うんです。もっと寝起きみたいな感じを好むというか。

・池上氏 穂村さんの本で、短歌は「言葉を軽くつかむ」といい、という表現がありましたね。あれと似たような感じですか。

・穂村氏 そうですね。ただ、僕も実際にはこういうタイプだし、塚本邦雄なんかもそうですね。表現意図がギラギラしている。だから嫌われるんですよね(笑)。塚本邦雄は偉い人なんだけど、今も微妙に嫌われていて、それは表現意図で武装してギラギラしているからです。斎藤茂吉とかはその逆で、だから白秋や塚本より愛される。「今まで寝てたよ、俺」みたいなフリをするんです(笑)。本当は表現意欲でギラギラのくせに、庶民的なフリ、寝ぼけているフリをする。そういうものを、短歌の世界は好む傾向があって、塚本邦雄はそれに苛立っている。「あいつは、本当は寝起きじゃなくて、わざわざパジャマに着替えて出てきたんだよ」みたいなことを言っちゃう。『茂吉秀歌』という、全5巻の本(講談社学術文庫)があるんですけど、いかに茂吉が本当は素朴ではない、ということを書きまくった、面白い本なんです。

・池上氏 それは読みたいですね。ナイス害さんは、ツイッターでも短歌を発表されていて、かなり活動されていますが、表現意欲がギラギラしている、というところはどうですか。

ナイス害氏 それは、自分の個性を出したくて書いたんですけど、嫌われたくないので気をつけます)

・穂村氏 まあ、どっちみちこの名前では(笑)。

・池上氏 そうそう。相槌打って悪いけど(笑)。

◆5.跡邉希美さん 短歌5首
 まな板に一点のみを着地させ包丁を待つスイカよ凛々し
 ペンギンは気圧の谷の影響で碁石となりて水族やめる
 ごみ山に異彩を放つ白菜の花悠然と咲く今日死ぬ日か
 頭から食えば痛いと感じぬかすでに死し鯵頭から食う
 からっぽのかたつむりのからかきあつめ家督相続解がわからぬ

・穂村氏の講評
 最初の歌は、この上の句がたいへん印象的ですね。球形のものですから、スイカを置くと必ず、接地しているのは一点なわけですよね。もちろんそれはみんな知ってることなんだけど、言語化されたものを見たことがない。そういう領域って、無数にあるはずなんですよね。これは発見で、今そういう能力がある人は、短歌や俳句じゃなくて芸人さんになったりするんですよね。みんなが見てるんだけど、言語化されない「あるある」みたいなことをやる能力がある人は。下の句はその繰り返しになっていて、一点で着地しているというところに、ある種の凛々しさを見ているんだと思うんですけど、この感受性はわかりますね。四角いものがちゃんと着地していても別に凛々しくはないわけで。つまり、接地面積が小さいもののほうがスリリングで潔いと感じる、そんなところをついていて、すごく新鮮な発見です。
 最後の歌もいいかな。さっきも言ったように短歌って、意味よりもリズムや響き、短歌では調べというんですけど、あと表記も重視されます。これは家督相続で家をどうするか、をかたつむりのお家である殻にひっかけて、「か」の音を畳み掛けているわけです。もうひとつは表記にも工夫があります。上の句はずっとひらがなで、言葉遊びみたいだったのが突然、「家督相続」というリアルで生々しいものになる。だからかたつむりだったのか、という面白さ。これは手練れの歌だなあと思いますね。

・池上氏 跡邉さん、これはそういう狙いですか。

跡邉氏 狙って作りました。家督相続、について歌ってみたくて)

 「頭から食えば痛いと感じぬかすでに死し鯵頭から食う」という歌は、これは面白いと言っていいか、どうですかね。

・穂村氏 どうかな。なんとなく、文語が不安定なので、普通に口語で書いてもよかったかな、と思いますね。
 全体的な発想は、ペンギンの歌なんかも面白い感じがして、感受性の中にダークなものがたぶんあるんですね。そういうものがあったほうがいいのかな、というふうには思います。最後の歌はリズムもいいし、「家督相続を歌いたい」という発想も面白いと思いました。

◆6.船津南帆さん 短歌5首
 くねくねのトビウオだったお前もさ上司の前じゃ顔を澄まして
 自民党演説してる傍で二十歳のわたし唇に紅
 スライドでロック解除を撫でてから青い小鳥をそっと潰した
 四つんばい揺れる黒髪セミロング今宵窓際乱れた毛布
 夢の中ピンクに濡れた嘴で貴方の睫毛をそっと弾きたい

・穂村氏の講評
 これも面白い表現がいろいろありますね。「くねくねのトビウオ」とありますが、トビウオを「くねくね」という感覚って不思議じゃないですか。トビウオってよく知らないけど、イメージとしては「ビューン」みたいな。くねくね感ってあまりないと思うんですけど。
 3首目は、これはスマートホンでツイッターをやるときの動作ですね。ツイッターのアイコンである青い鳥のことなんですけど、何度もやっているような動作をこうやって言語化することで、それまで見えていなかった世界が見えてくるということですね。
 最後の歌は、このイメージもちょっとセクシャルで魅力がありますね。問題があるとすれば、初句の「夢の中」は言わないほうがいい。夢の中、ということで得をすることは何もないので、いきなり言ってしまって何の問題もないです。

・池上氏 船津さん、今の感想を聞いてどうですか。

船津氏 トビウオは、くねくねしていると思って書いたんですが、くねくねしていないと言われて……(笑))

 みなさん、トビウオはくねくねしていると思う人は手を挙げて。
(ほとんど手が挙がらない)

 くねくねしていないと思う人。
(多くの手が挙がる)

 圧倒的ですね(笑)。

船津氏 私がイメージしたのは、どっちかというと、海の中にいるときのトビウオじゃなくて、水揚げされたときのトビウオでした。これは社内恋愛の短歌なんですけど、私は町中でカップルとか見ると、いくら楽しそうでも、「この後そういうことをするんだな」と思ったりするので(笑)。社内恋愛してる人っているじゃないですか。でも上司の前じゃ顔を澄ましてるんだろうな、と思ってこの歌を作りました。)

・穂村氏 面白い短歌を作る人には2種類いるんです。ひとつは、面白いことを書ける人。もうひとつは、本人が面白くて、ただ素直に書いている人。彼女は後者かもしれないですね(場内笑)。もともと面白いメンタルな人が、素直に書くと、自然に面白くなりますね。

船津氏 最後の歌は「夢の中」がないほうがいいとおっしゃいましたが、私は好きな人の睫毛を唇ではむっとするのが好きなんです。でも、やってることがバレたら恥ずかしいので、夢の中のことにしました)

 いや、恥ずかしいのがいい短歌なんです(笑)。つまり、与謝野晶子の歌なんかも、あの時代には信じられないぐらい、恥ずかしいどころではない歌だったわけで。それにお見受けしたところ、だいぶその能力も高そうだし(笑)。
 僕もそうなんですけど、本当に批評性とか羞恥心のある人は、短歌やらないんですよ。短歌に向いてるのは、別に恥ずかしくないという人です。こればっかりは、その人が持って生まれたものだから。でも、茂吉もそうですけど、大歌人ってけっこう恥を知らない(笑)。底が抜けたような感じが、やっぱり短歌向きなのかな。批評性のある人は現代詩とかのほうが向いてると思います。

◆7.うにがわえりもさん「眼鏡屋の手紙」短歌6首
 「かけ心地いかがですか」と眼鏡屋の手紙がなぜか母だけに来る
 コンビニのあたりめどれが大きいか袋の上から確かめて買う
 さっきホームラン打ってたウィーラーが駅東口のサンクスにいた
 トムとジェリー始まるときのライオンはまだ元気かな死んじゃったかな
 「よく冷えたりんごジュースがのみたいな」紙コップから聞こえるささやき
 引っ越してきた日のお天気思い出す居間の電気のカバー外すと

・穂村氏の講評
 どれも面白いんですけど、3首目がとくに印象的ですね。「さっきホームラン打ってたウィーラーが」という上の句はともかく、下の句は短歌的にやや不思議な点があります。どうして「西口」じゃないんだろう、ということですね。「西口」だと音数がぴったりなんです。短歌を作る人は当然ここは「西口」にするんですけど、ここを「東口」にするのは、素人か、もしくは非常に短歌をよくわかっている人です。音数重視なら「西口」にするべきところをあえて「東口」にしたということは、ウィーラーは本当に東口にいたんだ(笑)、という逆説的リアリズムが生まれます。僕がよく言う例では、「団子坂」にすれば5音になるのに、あえて「道玄坂」にすると6音になって乱れる。でもあえてそこを「道玄坂」にすると、音数を乱してまでそうするんだから本当に道玄坂なんだな、という感じになります。
 つまり、普通の言葉の連なりとして見ると、何の問題もないところが、一旦それを短歌だと思って見ると、言葉の組織がまったく違うんですね。

・池上氏 うにがわさん、字余りはあえて選んだのですか。

うにがわ氏 初校の段階では西口だったのですが、推敲の段階で東口に直しました)

・穂村氏 最後の歌もいい感じがしますね。最初に儀式のような作業をして、その動作と、記憶が結びついていて、必ず引っ越してきた日の天気を思い出す、ということだと思うんですけど。ここには喜怒哀楽とは違う、人間のメンタルのありかたが表出されている。こういうことってありますよね。ある動作やある匂いによって、ある記憶が呼び起される。その人にとってはかけがえのないもので、誰かに言ってどうなるものでもないんだけれども、それを短歌にすると不思議なことに、共通のある価値を持つということですね。
 これを口で言っても、たとえば友だちとご飯を食べているときに「俺さあ、居間の電気のカバーを外すと、引っ越してきた日の天気を思い出すんだよ」って言っても、相槌に困る(笑)。でも短歌にすると不思議なことに、まったく同じ体験じゃなくても、自分の場合はこれをするとこれを思い出すな、みたいな反応をする。非常に奇妙な心のはたらきですね、これは。
 みんな今はインスタグラムとかやってるけど、あれを文字でやる、というのもいいのかなと思いますね。

◆8.河田充恵さん 短歌5首
 草々に小さき花のつけをれば 引く手戸惑う文月の庭
 ブナと聞きブナと聞けどもブナ知らず 初めて仰ぐブナの木漏れ日
 大潮の健き叫びをみどり児は 命の刃その母に向け
 垂乳根の若き乳房は盛り上がり 真白き肌に青き血潮
 見つめれば何をか知らむ嬰児は かそけき光我に放ちて

・穂村氏の講評
 これは3首目がいいですね。子どもが泣いている、というだけのことなんだけど、それを言葉で組織化すると、こういうふうになる。とくにいいのは下の句ですね。命の刃をその母に向けているんだ、という感受性が魅力あるものだと思いますね。

・池上氏 赤ん坊が泣いている、というだけの情景なんだけど、こうして言葉にすると、すごいな、子どもは子どもで必死に泣いているんだな、と思わされるし、それを見つめている作者も、きちんとその必死さを受け止めている感じがしますね。大袈裟といえば大袈裟なんだけど、見ている光景の裏にあるものを感じますね。命の大切さ、と言ってしまうとつまらなくなるんだけど。

・穂村氏 赤ちゃんが泣いているところなんて、みんな絶対に見たことがあるわけだけど、それを言葉でどんなふうに組織化するか、というのは千差万別で、なかなかこういうふうには書けないですね。

◆9.古間恵一さん「夏のフィギュア」(短歌5首)
 折れた僕 歪んだ君をチラ見するぐるぐる巻きの補強メガネで
 君の名をアサギマダラの翅に書きあてなく放つ真昼の鳩舎
 サギ巣くるコロニーの木に鋸引く君は「チェ・ゲバラさ」と酔い狂い
 空蝉にチョコ流し入れ羽化を待つ羽化した君が羽化するように
 サマージャンボ、栞に化して生き残る八月二〇日の『サラダ記念日』

・穂村氏の講評
 この2首目はどうかな。アサギマダラ、っていうのは蝶々みたいなやつだと思うんですけど、それを鳩舎に放つ、というのがよくわからない。何でしょう、鳩が蝶を食べちゃうんですかね(笑)。鳩とアサギマダラの関係はよくわからないんだけど、でも何となくイメージとして成立している。「君の名」をいろんなところに書く、というのもよくあるパターンですね。短歌じゃないんですけど、『刑務所の中』(青林工藝舎)という漫画で有名な花輪和一さんは、亡くなったお母さんの名前を、カメの甲羅に書いて放したというエピソードがあって、読んで何となく怖いと思った記憶がありますけど。この歌にも、ある種の怖さがある気がしますね。

・池上氏 古間さん、これはどういう意味でしょうか。

(古間氏 そうですね、アサギマダラというのは2000キロ以上も飛ぶといわれる大型の蝶なんですけど、そこに名前を書いて、本当なら長い旅に出すところを鳩舎に放つ、というのは伝書鳩のイメージですね。その女性を離したくないのと同時に、伝書鳩に来させたいという、二重の迷いみたいなものを鳩舎に閉じ込めたような感じです)

・穂村氏 空蝉の歌もちょっとひっかかりますね。これは「う」の音で、「羽化」という言葉の連続で畳み掛けている。

◆10.鴨野ユーリーさん「凪のその先」(短歌5首)
 「さみしさに慣れるためです」花屋にて「彼女にですか?」の問いへの答え
 快速で通過したのはあの頃に君が住んでたもう降りぬ駅
 あの海にいつか行こうと言っていた君は一人で行ってしまった
 春風が抱えた花を揺らしゆく僕の孤独は凪に似ている
 日々はまだ続くのだろういつかまた風に吹かれて歩くのだろう

・穂村氏の講評
 これは終わりの2首がいいですね。孤独が「凪に似ている」という捉え方は何となく面白いような気がしますね。世代とかもあるかもしれない。われわれの世代では、孤独と凪はあまり結びつかないような気がします。結びつかないものを結びつけるところに、面白さがあるのかな。結びつくものを結びつけると、つきすぎになっちゃうから。

・池上氏 タイトルも「凪のその先」となっていますし、冒頭から「さみしさ」とか、悩みを抱えている姿が描かれています。でも冒頭の歌は、もっとうまくできるんじゃないかな。これでは全然、歌になっていないような気がするんですが。

・穂村氏 うーん、もしかすると語順を逆にしたほうがいいかもしれませんね。問いと答えを反転させているんですけど、「さみしさに慣れるためです」という答えが最後にきても、いいような気がします。
 5首目も、なんとなくいい感じはありますね。短歌って短いから、表現意図がすごくある人ほど、その短さに恐怖をおぼえるんですよ。自分が言いたいことを全部言い切れないんじゃないか、と思って。そうすると、初句からすごく、ある種の圧力がかかった言葉の出し方になるのね。ひとつ前の「夏のフィギュア」という連作とか、4番目に取り上げたナイス害さんの連作なんかは、その圧力が初句からすごくあるわけ。まあ塚本邦雄なんかもそうなんだけど、でも普通に短歌を作るのに向いているのは、その圧力に鈍感な人なんですね。初句からゆったり歌い出せる人。もしかして文字数切れになるんじゃないか、みたいなことにあまり怯えないタイプ。俵万智さんなんかそうですね。ゆったり歌い出せるんですよ。この2首はわりとそういう感じで、「日々はまだ続くのだろう」という初句からゆったり歌い出している。これも性質の問題で、なかなか変えるのは難しいんですけどね。僕なんかだと、もっと濃いやつをくれ、みたいに思いやすいんだけど、たぶん短歌の側から要請される、正しいカルピスの濃さみたいなのは、これぐらいの感じなんですね。

・池上氏 カルピスが薄い、とお父さんが怒る歌がありましたね、たしか。

・穂村氏 栗木京子さんですね。「『カルピスが薄い』といつも汗拭きつつ父が怒りし山荘の夏」という歌です。

・池上氏 鴨野さんは、短歌を始めてからどれぐらいですか。日が浅いのかなと思っていましたが。今回の連作では、どれが気に入っていますか。

鴨野氏 日は浅くないんです。けっこう昔から短歌は詠んでいました。今回の連作は、凪の歌を中心に読んだので、自分の中では4首目が気に入っています)

・穂村氏 この歌も、日常の感覚では恥ずかしいですよね。「僕の孤独は凪に似ている」って(笑)。みんなでご飯を食べているときに言われたら、やっぱりキツくないですか、周りの人は。でもそれが詠える人が、短歌に向いているんです。恥ずかしいと思う人は最後の踏み込みができないから。
 昔、福島泰樹という歌人が、「絶叫短歌コンサート」という、すごい朗読をしていたから、「あんなに叫んで恥ずかしくないんですか」と訊いたら「恥ずかしい奴は舞台に上がるな!」って言われて「ごもっともです!」って(笑)。舞台の上で恥ずかしがっている人を見ると、こっちが恥ずかしくなるじゃないですか。短歌もそういうことです。

◆11.蜂谷尚美さん「夏への執着」(短歌5首)
 さざ波がすべてことばになればいい ずっと瞳をあわせない君
 夏の日を刃にかえてきりとった ショートカットの丸い影
 空色の似合う人皆樹脂のなか 僕の居場所はどこにもなくて
 期限日をゆうに10日は過ぎている はらわた抱え冷凍される
 夏はもうおわっているという母の瞳に映る生魚の目

・穂村氏の講評
 この1首目は、とてもいい歌だと思いました。これはもう、短歌の韻律や長さを十全に使いこなした秀歌ですね。まあ、これだって恥ずかしいんですけどね。「ずっと瞳をあわせない君」なんて、世の中には言えない人もいっぱいいるから。「さざ波がすべてことばになればいい」なんて、言えない人もいるからね。でも、これはそこがいいんですよね。つまり、耳で聞いても瞬時に意味がわかって、けれども単純ではない。これが一番いい状態で、ダメなのは逆に、耳で聞いても意味がわからなくて、説明を聞くとめっちゃ単純だったりするパターンです(笑)。この歌は、とてもいいですね。
 この5首の中では、この最初の歌が圧倒的にいいです。

・池上氏 蜂谷さん、短歌を作ったのはこれが初めてじゃないですか?

蜂谷氏 いえ、小さいころからたまに作っていたんですが、どこでどう発表すればいいかわからなくて、そのままにしていたんです。さざ波の歌をほめていただいて、たいへんうれしいです。これは昔からよく思うことで、私は書くことも話すことも得意ではないので、頭の中が直接こぼれて相手に見えればいいのにな、と思っていたんです。目を合わせると「何にらんでるの」とか言われたりするし、合わせなくても全部伝わっちゃえばいいのに、という思いで書きました。思ったより単純ですみません)

・穂村氏 いえいえ、これはとってもいい歌だと思いますよ、本当に。

・池上氏 僕もこの歌は本当にいいな、と思って、ぜひ穂村さんに読んでもらいたかったんです。

◆12.渡辺有さん 短歌3首
 あたたかい湿り気を抱く網膜に光届ける亡き星の群れ
 マリンバ叩く音にきこえる私の言葉マシュマロ国(こく)の君の耳には
 ぬるい泥にまどろむ蛙光浴びてオタマジャクシの夢を見ている

・穂村氏の講評
 1首目は、この下の句はある定型のイメージですね。つまり、地球に届いている光と、実在の星の間には時間差がある、ということをわれわれはみんな知っているわけですね。何万光年という遠くの星からくる光が、地球に届いたときにはもうその星がなくなっているかもしれない。そういうことを子どものころから、「へえ」という驚きとともに認識している。で、上の句はそれに対して、自分はたしかに生きている、今ここで呼吸している、という生の実感が「あたたかい湿り気を抱く網膜」という表現になっている。だからこれは、生と死の対比のようなものが1首の中にあるんですね。上の句の表現がこの歌の魅力で、それによって歌が生きてきたと思いますね。
 オタマジャクシの歌も、胎児の夢というような、ひとつの定型的なイメージがわれわれの中にありますよね。胎児はどんな夢を見ているんだろう、みたいなものがあると思うんですけど、それをカエルに置き換えたことでユーモラスになり、かつ、強度を増したというのかな。人間は変態しないけど、カエルはオタマジャクシから大きく姿を変える。だからその分、前世みたいな感じが強いといいますか。人間に比べて姿を変えていく生き物のほうが連続性が遠いような気がするので、より一層、夢が遥かな強いものになるというか。だからこの歌の主題に対して、カエルとオタマジャクシの関係性を導入したという判断は、正解なのかなという感じがします。

・池上氏 渡辺さん、お話をうかがってどうですか。

渡辺氏 ありがとうございます。カエルの歌は、作った気持ちとしては、おばあちゃんガエルみたいな感じで。おばあちゃんが、かつて自分がオタマジャクシだったころの夢だったり、あるいは自分の子どもがオタマジャクシだったころの夢かもわからないんですけど、そういうイメージでした)

・穂村氏 オタマジャクシとかって多分、生存戦略が人間と違っていて、人間は少なく産んだ子どもを大事にガードして大きくするけど、数をいっぱい産んで、産みっぱなしで、食われるものは食われ、ひからびるものはひからび、何百分のいくつかでも生き残ればいいという感じだと思うから、その意味では、自分が産んだオタマジャクシの夢、というのも面白いイメージなのかな、というふうに思います。

◆13.座光寺修美さん「友へ」短歌5首
 これからは老人ホームに移るから友は座敷の仏壇閉じる
 訪れてひとり暮らしの農婦より最後の茄子を二ついただく
 娘二人大学を出し畑つくり九十の友はいぐね離れて
 明日よりは無人の屋敷あじさいが雨にうたれて輝きを増す
 罌粟あやめ矢車草百合グラジオラス向日葵の畠さようなら

 ※わたしが親の介護で東京から帰省した二十年前、相馬の農家の主婦だったKさんと親しくなった。やがてお互いにひとり暮らしになり、ボランティアや読書などを通して、友情が深まった。畑作続けるKさんに米や野菜、無花果や柿をいただいた。向学心の強いKさんは私の絵や文学の理解者だった。高齢になり、Kさんは立ち居が不自由になった。遠方に嫁いだ娘たちは、高級老人施設をさがした。わたしはKさんにかぎりない感謝をささげる。

・穂村氏の講評
 これはリアリズムですね。文体がどのくらいリアルなのか、ということを、読み始めた読者は、設定して読んでいくんです。たとえば、9番目に取り上げた古間恵一さんの、アサギマダラの歌は、実際に蝶に人の名前を書いて放ったとは思わないじゃないですか。だけど、すべて言葉でただ書かれているのに、なぜ、あるものは本当だと思い、あるものは頭の中のイメージだと思うのか。読み手は何でそれを判断するのか、わからないんだけど、でも読み手は判断するものなんですね。で、それに見合った評価をくだすというのかな。たとえば僕のよく言う例だと、映画のアクションシーンがあったとき、生身のアクションだと地味でも高評価かもしれないけど、それがCGだとわかった途端に、急に評価が辛くなる。「だってCGだろ?」みたいな感じになるということがあります。つまり『スター・ウォーズ』的になればなるほど、「それなりのものを見せてくれよ」みたいに思って、小津安二郎みたいになると、ちょっとした表情の変化だけでも価値あるもののように、受け手側が勝手に思う。
 映画ならわかるんだけど、なぜか短歌にもそれがあるんですね。リアリズムのモード設定がいろいろあって、非常にリアルな場合は、微細なことが書かれていても、そこに読者は価値を見出す。この連作でいうと、4首目にある、「あじさいが雨にうたれて輝きを増す」という、ごく地味なことですよね。でもわれわれはこれをリアリズムモードで読むので、別に派手なことが起きなくても、ある価値を見ることができる。それはとても不思議な、書き手と読者の間の、心の相関関係みたいなものだと思うんですけどね。
 ひとつは、リアリズムのこういうモードというのは何が違うかというと、世界に起きているほとんどすべてのことに、自分は無力であるという感受性なんですよ。近代短歌の感受性はわりとそういうもので、それが戦後の、前衛短歌の塚本邦雄たちになると、自分は短歌の中においては言葉ですべてを支配できる、というモードです。これは、塚本邦雄や寺山修司たち以降、そうなったんですよ。これは非常に大きな変化で、テレビや映画みたいな感じ方ですね。その世界の中は作り物で、如何様にも自分が演出可能である。なぜなら自分は監督だから。というように、作者と短歌の関係が、戦後になって、監督と映画の関係のように変質したんですよ。でも戦前は、そうは考えられていなかった。実際、現実の世界とわれわれの関係というのは、映画と監督どころか、主役ですらなくてエキストラにすぎない。
 さっき池上さんとそば屋に行ったとき、駐車場が満車でね。運転している池上さんが困って、店員さんに「どうすればいいの」と訊いたら「そこでお待ちになって、空いたところに入ってください」と言われてね。これはまさに、映画監督ではない瞬間でしたよね(笑)。われわれはじっと待っていて、どこかが空いたらそこに入る。でも、現実はそれなんですよ。現実はその連続だから、われわれは映画を観にいくんです。映画の中の高倉健は、そんなんじゃないから。その、メディアの変質がとても大きいんですね。短歌は、戦前と戦後でそこがころっと変わってしまったので。でも、まともに漫画や映画のように作ったら、ちょっと分が悪いんでしょうね。漫画や映画のほうが派手で面白いに決まっているから。だから、この「あじさいが雨にうたれて輝きを増す」みたいなリアリズムのモードが根強くて、力をなかなか失わないんです。

・池上氏 失わないですね。みんな感情移入して、その風景が見えてくる。無人なのに、あじさいは逆に輝きを増すという、この悲しさみたいなものが、行間からのぞいてきて、いいですね。

・穂村氏 喜怒哀楽を直接は書かないんだけど、これは寂しいんだということが非常によく伝わってきます。「あじさいも萎れています」じゃダメなんですよね。これだと急に演出みたいになるので。逆に、無人になるけどあじさいは輝く、という、逆向きのベクトルが非常に胸を打つ。これはいわゆる、世界に対して敬虔なモードで、ざっくり言えば年寄りほど敬虔なスタンスで、若いほど、もしくはわれわれのようなバブル世代や団塊の世代が、最悪に思い上がったスタンスで世界に対峙する。これは時代によるもので、イケイケの時代に育った人は映画監督気分で生きるから。自分をエキストラだとは思わないんですね。

◆総評

・池上氏 いかがですか、13名の歌を評してみて。

・穂村氏 初めての人もいるとはとても思えないぐらい、魅力のある歌ばかりでした。短歌のことをそんなに知らなくても、そこに自分の表現を投入しようという意欲がすごくあるので、何がやりたいのかということがよくわかりますよね。
 やっぱり、何がやりたいかというのはとても重要なことです。結果はフィードバックさせて時間をかければ、いくらでもブラッシュアップすることはできるし。小説を磨き上げるってたいへんなことだけど、短歌や俳句を磨き直すのは、その場で言葉をちょっと動かすだけでも、見違えるようになるわけだから。

・池上氏 そうですね。石が玉になってしまうというか。

・穂村氏 だから、意欲というか、自分が描きたい世界がそもそもあるのか、ということが重要になります。今回の講評で取り上げたみなさんは、そこがよかったと思います。

・池上氏 自分の世界を持っている、というのは大切なことですね。
 では前半の講評はここまでにして、後半では、現代の歌人の中では一番新しくて、一番評判になっている「鳥居」という女性歌人がいまして、穂村さんもたいへん高く評価されていますので、その歌について、そして現代の短歌についてお話をうかがいたいと思います。

※後半の模様は、本サイト内「その人の素顔」にてアップいたします。

【講師プロフィール】
◆穂村弘(ほむら・ひろし)氏

1962年、北海道札幌市生まれ。上智大学文学部英文学科卒。86年に連作『シンジケート』で角川短歌賞次席。89年に第1歌集『シンジケート』、92年に第2歌集『ドライドライアイス』を刊行して90年代のニューウェーブ短歌運動を推進する。2000年歌書『短歌という爆弾-今すぐ歌人になりたい人のために』。02年に初エッセイ集『世界音痴』を刊行し人気エッセイストの地位を築く。08年短歌論『短歌の友人』で伊藤整文学賞受賞。17年『鳥肌が』で講談社エッセイ賞受賞。現在、日本経済新聞の歌壇選者。

●第1歌集 「シンジケート」(沖積舎)   ※角川短歌賞次席
https://www.amazon.co.jp//dp/480601110X/

●第2歌集「ドライアイス」(沖積舎)
https://www.amazon.co.jp//dp/4806011118/

●歌書「短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたい人のために」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4094088695/

●エッセイ集「世界音痴」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/409408441X/

●第二エッセイ集「もうおうちへかえりましょう」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00B9CAKVW/

●歌集「短歌の友人」(河出文庫)
※伊藤整文学賞受賞  
https://www.amazon.co.jp//dp/4309410650/

●「鳥肌が」(PHP研究所)※講談社エッセイ賞
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83051-3

●「ぼくの短歌ノート」 (講談社)
https://www.amazon.co.jp//dp/4062194589/

●「短歌ください」(角川文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00L10N6MW/

●「はじめての短歌」 (河出文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4309414826/

●「野良猫を尊敬した日」 (講談社)
https://www.amazon.co.jp//dp/4062203952/

●「もしもし、運命の人ですか。」(角川文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4041026245/

●「ラインマーカーズ The Best of Homura Hiroshi」(小学館)
https://www.amazon.co.jp//dp/4093874492/

●「キリンの子」  鳥居 著 (KADOKAWA)
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●「茂吉秀歌」 塚本邦夫 著 全5巻(講談社文芸文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4061591347/

●「桜前線開花宣言」 山田航 著 (左右社)
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