「短歌を読む作業は、過去の歌と比較することの繰り返しです。だから、ストックがない人は、論理的な能力があっても韻文の批評はできません」

 第87回は歌人の穂村弘さんをお迎えして、穂村さんが最も注目しているという歌人「鳥居」さんの世界についてや、世相の変化による短歌の変貌などについて、お話していただきました。

◆セーラー服歌人の衝撃/「やるか、やらないか」/イノセンスのまぶしさ

――穂村さんが注目されている歌人の「鳥居」さんは、NHKの「クローズアップ現代」に出演されたり、メディア露出もあるので、ご存じの方も多いでしょう。いつもセーラー服を着ている方です。幼いころに、精神を病んだお母さんが自殺されて、施設に入るという環境で育ち、ある時期から歌を覚えて投稿を始め、それが認められて本になって、現代歌人協会賞という、歌壇では最も権威のある賞を受賞されました。歌集『キリンの子』(KADOKAWA)が出たときに、穂村さんが週刊文春の書評欄「私の読書日記」で取り上げて、そこで激賞されています。僕もその書評を読んで、さっそくAmazonで注文して読んだんですが、圧倒されました。とくに、母と過ごした思い出の家が取り壊される章「家はくずれた」が、一番いいと思いましたね。

穂村 鳥居さんの本はですね、帯に「目の前での母の自殺、児童養護施設での虐待、小学校中退、ホームレス生活――拾った新聞で字を覚え、短歌に出会って人生に居場所を見いだせた天涯孤独のセーラー服歌人・鳥居の初歌集」という刺激的な文字が並んでいましてね。俳句をやる人ってわりとお金持ちの人が多いんです。政治家とか社長とか。中曽根康弘とかも句集を出してるんだけど、短歌を作る人は、ホームレスとか死刑囚とかね(笑)。あとは皇族ね。つまり、非社会的というか、社会の中にいない人ですね。それに対して、社会にシンクロして機能できる人が、俳句を作る傾向にあります。
 鳥居さんも、社会の中にいない人という感じがしますね。小学校中退というぐらいで、義務教育を受けられなかったから、それへのアピールということで、何歳になってもずっとセーラー服を着ている。舟木一夫は70歳ぐらいになっても詰襟の学生服を着ているけど、あれは「高校三年生」という持ち歌のアピールだから(笑)。一般の素人が、普通にセーラー服を着ているってかなり異様なことです。それはさっきの講座でも出た羞恥心の話にもなるんだけど、やるかやらないか、だから。そりゃあ、いろんな批判もあるけど、この人は、その気迫がすごい。歌は、非常に清純です。「みわけかたおしえてほしい 詐欺にあい知的障害持つ人は訊く」という歌なんて、この質問をすること自体が知的障害を物語っているよね。われわれは「見分け方を教えてほしい」なんて素朴に聞けないもん。だって、詐欺ってそれがわからないようにやるものだから。でも、われわれはそういう悪意を前提とした世界像に洗脳されてるから、その言葉が出ないわけでしょ。だけど、知的障害の人はそれに洗脳されてないから、まっすぐに訊いてくる。その言葉の前に、われわれは言葉を失うというか。「君にはわからないよ、僕だって見分けられないんだから」みたいには言えない。それを言うことは、「世界はすごく汚い場所なんだよ」と言うのに等しいから。
 それに似た感じで、「不審者に「へんなひとですか?」と訊いてしまえる甥の夏がまぶしい」(はらじゅくのじゅく)という短歌があるんだけど、それもまぶしいよね(笑)。つまり、幼かったり知的障害があったりする人以外は、そのイノセントさを持っていないんです。今われわれはもうね、電車にちょっとでも動きが変な人がいたら、念のために車両を移動しておくか、ぐらいだよね(笑)。別に変質者だという確信がなくても、ちょっと変なだけでもね。そのとき、われわれは敗北主義なんだよね。身を守ることに凝り固まっていて、どこかでそのことに引け目を感じてもいる。もっとこう、まっすぐまぶしく生きられないのか、みたいなね。そのとき、この歌集『キリンの子』には、そういうまぶしさがあるんです。「孤児たちの墓場近くに建っていた魚のすり身加工工場」という歌なんか、普通の人は、「孤児たちの墓場近く」とくると「海が光っていた」みたいにやっちゃうんですよ。そこで、孤児たちにも、自分にも、ある種の癒しをつい与えたくなっちゃうものなんですよ。だって、すり身加工工場があるようなところは、近くに海があるに決まってるもの。だから、鳥居さんは海も見ているはずなんですよ。でも歌には「海」の存在を入れないで、「すり身加工工場」という、過酷な現実の象徴を持ってくる。自分がそこで生きている、ということから目をそむけない凄味みたいなものがありますね。

◆1円単位の査定社会/「家はくずれた」の幸福と不穏/ポストの中の手紙たち

――大根の歌もすごいですね。「大根は切断されて売られおり上78円、下68円」。ものすごく即物的で、上下で値段がちょっと違うところに、社会の非情さみたいなものが歌われています。

穂村 これもやっぱり、昭和のある時期まではもうちょっと世の中がざっくりしていたんじゃないかと思うんですよね。僕は大根をお店で買ったことがないのでわからないんだけど、たぶん上のほうがちょっとおいしい、みたいなところがあるんでしょう。そういう、わずかな価値の違いを1円単位で査定される世界で、われわれは生きている。そのシステムがあまりに高機能なので、「もっとざっくり行きましょうや」みたいなことを誰かが言っても、みんな聞く耳を持たない。全員がそれに苦しんでいる、ということが、この歌から伝わってきますね。

――『キリンの子』には、鳥居さんはスーパーマーケットの野菜売り場でアルバイトしていたことがあるので、野菜の歌が結構あるんです。その中で大根が歌われているんですね。
 それから、この病室の歌もすごいですね。「病室は豆腐のような静けさで割れない窓が一つだけある」。

穂村 割れない窓が一つある病室、ってどういうのかわからないけど、たぶん精神科とか、特殊な病室なんでしょうね。

――これは精神病院だと思いますね。お母さんが精神を病んで、薬をいっぱい飲むんです。お母さん、野菜、そして孤児。これがずっとキーワードになっているんですね。僕が、全篇のハイライトだと思ったのが(『キリンの子』のなかの)「家はくずれた」という章です。

穂村 これは、お母さんとの暮らしを歌った章ですね。前半はわりと幸福な感じなんだけど、それが崩壊していくドラマがあります。最初の歌は「寝そべって算数ドリル解く午後に野菜の匂いの雨が降り出す」。これもすごく感覚が鋭敏で、目に浮かぶ感じがありますね。雨が降り出しても、自分は家の中にいるから安心なんですよね。それで勉強もすることができている。

――その幸福なイメージが、読み進むうちに、お母さんの狂った表情とかが描かれるようになっていく。

穂村 「サインペンきゅっと鳴らして母さんが私のなまえを書き込む四月」、これは新入学とか、新学期なんでしょうね。「きゅっと鳴らして」というところに魅力があります。お母さんに名前を書いてもらって、護られている。「お月さますこし食べたという母と三日月お夜の坂道のぼる」、お母さんが冗談を言ったんでしょうね。月の満ち欠けを「食べちゃったのよ」みたいに言ったということなのかな。そんな感じで、いつもお母さんは私より先に起きている、とかそんなふうに幸せな感じで続いていく。「ゆっくりとうすく光を引き伸ばし銀のひかりで切るセロテープ」という歌もいい。ただセロテープを引っ張って切るだけなんだけど、「光」「ひかり」と同じ言葉が2回、違う表記で出てきますね。テープを伸ばすのを「光を引き伸ばし」と表現して、金具のほうは「銀のひかり」と書いている。これは非常に上手だな、と思うんですけど、この辺から、ちょっと雲行きがあやしくなるんですよね。

――そうなんですよね。このあたりから不穏さが出てきますね。

穂村 「カーテンを開けない薄暗い部屋に花柄を着た母がのたうつ」、この「のたうつ」という動詞がね。花柄というのも妙に生々しくて、怖い感じがしますね。「夕食を作りつづけた母だったつめたい床にまな板おいて」、この辺もちょっと変になってるかな。普通、まな板を床に置かないですよね。

――立ち上がれないほど体調が悪かったんでしょうかね。

穂村 次の歌も「副作用に侵されながら米を研ぎ、とぎつつ呻くあの人は母」とあります。この「あの人は母」という言い方も、独特の距離がありますね。逃げ場のない感じがあります。

――「泣いたってよかったはずだ母はただ人参を切るごぼうを洗う」、この歌も淡々と事実を描いているんだけど、それを見ている娘の気持ちが伝わってきますね。

穂村 「振り向かず前だけを見る参観日一人で生きていくということ」という歌もすごいですね。なぜ授業参観で振り向かないか、というとお母さんが来てないから。お母さんが来ている子どもは、後ろをちらちら見て気にするものですけど、この子のお母さんは来ていないから、振り向かないで前だけを見ている。「思い出の家壊される夏の日は時間が止まり何も聞こえぬ」、これは本当にすごい歌で、心が外界を認識できなくなっている、ヒューズが飛んでいるみたいな状態なんでしょうね。そういう過酷な歌はいっぱいあるんですけど、一方で「町角のポストのなかに隣り合うかなしい手紙やさしい手紙」なんて歌もある。言われてみればその通りなんだけど、こんなふうに滑らかに韻律に乗せて歌うのは難しいし、耳で聞いて瞬時にわかる。それぞれがまったく関わり合わない人生をわれわれは生きていて、ある人が悲しみのどん底にあるとき、ある人は幸福の絶頂にいる。誰でも知っていることなんだけど、それをポストの中の手紙が隣り合う、というふうに表現する力がある。

◆共通体験の多い風土/バナナとメロン、そしてハーゲンダッツ/甲子園ホームラン量産の背景

穂村 短歌の場合は、いつどこで誰が何をどうした、という形で情報を手渡すスペースがないので、それをやらずに、もうちょっと直にというのかな。たとえば「帰る家失くして歩く通学路 絵の具セットはカタカタ揺れて」という歌の、下の句は非常にうまい。ランドセルの中に入っている、絵の具セットがカタカタ揺れるという感じで、みんな体験したことがあって、身体に入っていることです。昔の歌で、「小さな石鹸カタカタ鳴った」みたいなのがありましたね(笑)。

――僕の好きな作家の森内俊雄の短篇にも、学校のグラウンドの喧騒をランドセルに詰めて少年が帰ってきた、という表現がありました。

穂村 鳥居さんはわれわれよりずっと若い世代のはずだけど、日本ってすごく共通体験の多い国というか、バリエーションが少ないですよね。校舎のつくりとか、北と南で風土が全然違うのに、みんな同じなんてどんな杓子定規なんだと思うけど、そのせいで、ジェネレーションギャップや地域ギャップをあまり感じないんですね。

――鳥居さんの歌集を読むと、時代が戻ってきたのかなと感じますね。昔の、石川啄木とかの短歌を読むと、テーマになっているのは貧困、病気、そして家族。これが三大テーマという感じでしたが、社会が豊かになるにしたがって、別なものを歌おうとしてきた。それが、ここにきてもう一回、貧困や児童虐待、病気などが詠まれるようになってきたのでは。僕は新人賞の下読みもたくさんやっていますし、大学の創作学科で講師もやっているので若い人の小説を読む機会が多いんですけど、今どんなものが書かれているかというと、恋愛小説ではプラトニックな関係ばかりです。これは大人の世界でもそうで、恋愛小説でも性的関係はなかなか描かれません。そんな時代だからこそ、戦前のプラトニックな恋愛小説も、また読まれてもいい感じですよ。

穂村 じゃあ、村上龍みたいなのはどうなっちゃったんですか。

――若い人には読まれてないんです。『トパーズ』(角川文庫)なんて大傑作があるんですけど、大学の授業で使ったりしたらもうクレームの嵐ですよ(笑)。使いませんけどね。なぜかというと、女子大生のそばにはお母さんがいるんですよ。「今日は授業で何をやったの」といわれて、『トパーズ』は見せられませんよね。

穂村 80年代には、過激なら過激なほど偉くて、変態なら変態的なことをするほどカッコいい、みたいな価値観があったのが、今はまったく通用しないということですかね。なんでそうなったんだろう。

――友情以上恋愛未満とか、肉体的接触はなしとか、そういう関係がよしとされていますね。

穂村 短歌ってもともと恋歌のジャンルだから、相聞歌という、お互いに想いをやりとりする伝統が千年以上あるわけですけど、それが最近、急速に希薄化されているということですかね。

――2年前に穂村さんがここに来られたとき、講座で穂村さんの短歌講評エッセイ『ぼくの短歌ノート』(講談社)を取り上げたんですが、ここでは戦前の慎ましい恋の歌が引用されていて、昔の歌のほうが非常にエロティックでよかったよね、という話をしましたね。ああいったプラトニックな、肉体の接触以前にある濃密な感情が詠われていましたけど、今はそうでもない。

穂村 やっぱり、飢餓感みたいなものがないということですかね。僕がいつも思い出しちゃうのは、自分たちがハーゲンダッツを買うのに行列した記憶かな。今はどこのコンビニでも売ってるから、ハーゲンダッツに対する感情が全然違う。一世代前の、うちの父親ぐらいの世代だと、それがバナナとかだから。父親はバナナ食うときに目の色が変わるんだけど、いまや毎朝メロンを食ってる人とかもいて(笑)、バナナ観、メロン観、ハーゲンダッツ観がそれぞれ違う。食だけじゃなくて、ヌード写真を拾うのに河原ですごい苦労したりもしてた(笑)。みんなで探して、拾うと共有の缶カンに入れて、埋めて隠したりしていたんだけど、それがある朝、朝日新聞の一面広告に宮沢りえのでっかいヌードが載っちゃう(笑)。篠山紀信撮影のヌード写真集『Santa Fe』(朝日出版社)が出たときに、自分の中で、缶カンの中にヌード写真を大事に埋めていた、あの感じが壊れましたね。今はもうネットがあるから、性的な情報とか、アクセスの容易さが全然違う。今、飢餓感のあるものって何なんでしょうね。

――最近はポリティカル・コレクトネスということもあって、いろいろ難しいですね。ハリウッド映画では、人の頭を吹っ飛ばしたり、頭蓋骨を割って脳みそを食べたりする描写はしてもいいんだけど、ペットや小動物を殺すどころか、銃を向けるだけでも動物愛護団体から抗議がくる。日本の小説でも、古い小説を再文庫化するときなど、生き物を殺す描写を削除したりすることがあります。価値観をアップデートしていかないとまずいんですね。ある小説では、パチンコ(スリングショット)の、射撃の腕を磨くために野良猫を撃っていた、という描写が、再文庫化されたときには、猪に変わっていました(笑)。

穂村 猪や鹿ならいいんですね(笑)。

――野良犬も見かけなくなりましたし、世の中全体がキレイな社会になって、考え方もキレイになってきた感じがしますね。

穂村 それが急速なんですよね。1980年代に僕の同世代の歌人が作った短歌で「どこの子か知らぬ少女を肩に乗せ雪のはじめのひとひらを待つ」(荻原裕幸)という歌があります。これは当時、ロマンティックな歌として受け入れられました。でも今はもう、犯罪者の歌です(笑)。上の句で、もう「事案」というやつですよ。だから、30年前にはいいものとして賞揚されていた短歌が、今では犯罪の歌になってしまうという。もうちょっと長いスパンだったらいいんだけど、僕らがその価値観のまま最後まで生きていける時代ではもうないんです。5年単位ぐらいで、すべての感覚が違う。

――僕はもう高校野球を全然見なくなってしまったんですけど、今年の甲子園ではホームランが非常に多かった。それはなぜか、という解説記事を読んだんですが、それによると、昔は強打者がいると敬遠したりして、勝負を避けることがあった。だけど、今は正々堂々と勝負しないで敬遠したりすると、監督や学校にクレームがくるというんですね。だから真っ向勝負することになり、ホームランが増えるという。この流れがあるんですが、このままでいいのかなと思いますね。もっとずる賢い戦い方があってもいいでしょう。選手層の厚い地方と、そうでない地方があるわけですよ。それが真っ向勝負しかできないのであれば、山形のように薄い地方はそりゃ負けます。そういうときは敬遠してもいいと思うんですが、今はそれが許されない。

穂村 山形は敬遠アリ、とかね(場内笑)。だって、高校生の数自体が全然違うわけだから、そもそも最初の前提がフェアじゃないですよね。そうなってきたのは、ネットのせいかもしれないですね。誰もが自分の意見を表明できるようになったから。

◆短歌とネットの相性/山形歌壇の現状は/日本で何番目なら食べていけるか?

――でも、ネットがあるがゆえに、短歌の人気がまた盛り返してきたということもあるんじゃないですかね。

穂村 そういう面はありますね。つまり、30人が一斉に作品を読み合うなんて小説ではできないけど、短歌ではまったく簡単なことです。1ページ分のスペースがあれば、それを全員で共有して、お互いに批評したり、投票したりとゲーム的なことができるので、ネットとの相性はいいでしょうね。

――山形に関していえば、山形新聞が若い歌人を発掘するためのプロジェクト「U39やましん紙上歌会」を作ったりもしています。どうなんでしょう、短歌を詠む人は増えてきているんでしょうか。

穂村 数え方がないからわからないけど、僕らが若いころは全国の大学短歌会って、早稲田と京大にしかなかったんですよ。今は多分30くらいありそうだから、それだけを見れば隆盛だけど、いわゆる短歌結社といわれる、昔ながらの組織の数はどんどん減っていて、それはつまり、みんな死んでしまうので自然減なんですね。地方自治体が減るのとまったく同じ理屈で、若い人が入ってこないから。だから、見方によっては栄えてるし、見方によっては衰退しているところもある。

――今回の講評で取り上げたナイス害さんは、ツイッターを通じて、山形で歌の会をやったりされているそうですが、どうですか、山形の歌会は。

ナイス害さん 今日の会場にはたくさんの受講生が来ていますが、私が山形で歌会をやっても、2~3人しか来ないこともあります。発信がツイッターに限られているので、ツイッターをやっている人しか来ない、という理由もあるんですが。人数は少しずつ増えている、と感じます。

――山形大学には、短歌会はないんですかね。うにがわえりもさん、ご存じないですか。

うにがわさん 今はないですね。

――そうなんですか。東北では、たしか仙台の東北大学にありましたね。

穂村 東北大はかなり活発に活動していますね。ひとり、中心になる人が出れば、たちどころにそうなるんですが。でも山形は斎藤茂吉の出身地なんだから、300年ぐらいは隆盛してくれないと(笑)。

――穂村さんは、全国いろいろなところに呼ばれると思いますが、短歌が一番さかんな地方はどこですか。

穂村 俳句がさかんなのは、正岡子規を生んだ四国だと思いますが、短歌はどこだろう……。イベントだけでいえば、たとえば長野は近代の歌人をたくさん輩出しているから多いし、北陸にいくと「万葉の里」みたいなノリですよね。千年以上の歴史があるから、どこにも必ず歌人はいるんですよ。山形に茂吉がいるようにね。でも、その魅力をアピールするのは、なかなかうまくいかないようです。最近は、文豪がキャラクター化されて、一気に活性化するような現象も起きているから、その辺でのやりようもあると思うんですけどね。

――斎藤茂吉を、もっと現代的にキャラクター化してもいいかもしれませんね。

穂村 茂吉は、和歌一千数百年の歴史の中でも屈指の才能ですからね。天才中の天才ですから、あんな人がひとり出たら他にも出そうなものですけど、そういうわけでもないのかな。

――今の短歌の傾向はどうですか。

穂村 みんな才能があるんですけど、基本的にジャンルとしてマイナーだから。それでご飯を食べるということを考えると、たとえば日本で100番目にサッカーがうまい人は、サッカーでご飯を食べられるじゃないですか。でも、日本で100番目にフィギュアスケートがうまい人は、多分それでご飯は食べられないと思うんですね。そのかわり、サッカーはやる人も多くて層が厚い。短歌の場合は、層が厚いとはいえないから、100番目にうまくても、多分それでご飯は食べられないかな。だから狙い目といえば狙い目ですけど。
 小説はどうですか。何番目なら小説でご飯を食べていけますかね。

――いやいやいや、それは難しいですね。作家専業で食っていけている人はなかなかいないと思いますよ。年収いくら以上を想定するか、にもよりますけど。地方なら300万ぐらいでも食べていけますけど、東京にいたらダメでしょうね。

穂村 ただ、小説の場合は、プロといえばパフォーマンスのプロだから。短歌の場合はレッスンプロがあるわけですよ。自分では短歌を作らなくても、新聞の選者になったら、それで生活できる。ピアニストとかゴルフの人がそうであるように、コンサートを開いたりトーナメントで勝つプロと、ピアノ教室の先生やゴルフのレッスンをするプロがいる。短歌にはお茶やお花みたいな側面があるから、先生になって食べていく、みたいなことはありますね。ただそれは、若い人にはちょっとキツい。

◆短歌のストックと論理/「折々のうた」の効用/短歌の「改良」と「改悪」

――今は、小説を1冊書いて50万ぐらいですからね。2~3年前なら70万ぐらいにはなっていたんですが。それに、初版だけで重版のかからない本が1冊出たら、もうダメですね。各社の編集者がその情報を共有しますので、「あの作家は初版で終わりだったよ」となれば、もう注文がこない。昔は、社内で編集者の力が強かったんですけど、今は営業のほうが強いので、「なんであんな売れない作家の本を出すんだ」となってしまう。文庫なら単価も安いし部数も抑えられますが、単行本はもう、作家の主戦場ではないですね。逆に言うと、初版の部数を低くして重版がかかりやすくする、という戦略にもなっていますね。
 小説も厳しいですが、歌人もなかなか本を出せないんじゃないですか。

穂村 最初に出す歌集は、ほぼ自費出版かもしれないですね。プロとして生活できるようになるまでの、決まったルートがあるわけでもないし。専業でやっている歌人が何人ぐらいいるか、わからないけど。短歌を作って食べていくのは難しいけど、読むことで食べるやり方はあります。短歌を読むというのは、今日の講評でしゃべったみたいに「これはこうなんじゃないか」という内容だけじゃなくて、構造的なこととか、あるいは過去にこういう歌があって、それを比較するとこうだ、とか。短歌を読む作業というのは、その繰り返しなんです。だから、評論といわれているものも、普通の文芸評論といわれているものとは違います。基本は、1首引用して、それを読む。それに関連した歌をまた引用して、比較して読む。その繰り返しだから、意外とできるんですよ。そんなに論理的な頭がなくても、自然に思い浮かぶんですよ。読んでるうちに「前にこんな歌があったな、あれの仲間だな、あれの逆だな」とか。つまり、自分の頭の中に一定数の短歌が記憶された後は、その読みの作業が可能になる。そのストックがない人は、どんなに論理的で優れた頭脳があっても、韻文の批評はできないんですよ。だから逆に言うと、論理的な能力はなくても、ストックさえあれば結構できるんです。僕なんかもそうなんですけど(笑)。

――いえいえ、穂村さんは論理的でしょう(笑)。

穂村 いやいや、わりとできるものなんですよ。だから、それは狙い目というか。あと、結構楽しいです。時代を俯瞰して見ることができますしね。塚本邦雄はよくそういう本を出していて、すごく楽しそうに書いている。そのジャンルは書き手が全然足りていないと思います。大岡信さんの「折々のうた」なんかがその最小単位ですね。あれはみんな喜んで読むじゃないですか。自力で読んでもわからないけど、ちょっとした解説があると「なるほどね」と思う。一日ひとつ、それを新聞で見ると、何か覚えたような気持ちになって、ちょっとうれしいみたいな。

――穂村さんの短歌論は『短歌という爆弾』(小学館文庫)や『短歌の友人』(河出文庫)、『短歌ください』(角川文庫)などがありますが、そこでも1首の歌を引用して、過去の歌と比較して、どこがよくてどこが悪いかと解説されています。穂村さんの独創的なところは、改良するだけでなく、改悪した例も挙げているんですね。そうすると、元の歌のどこがどうよかったのか、よく理解できます。これは穂村さんしかやっていないと思います。

穂村 たとえばさっきの鳥居さんの歌で、寝そべって算数ドリルを解いているというのがありましたが、これが「算数ドリル」じゃなくて「国語ドリル」だったらダメですよね。やっぱり算数のほうがいい。実際に目で見比べると、それがよくわかるんです。

◆結婚式の計画か、人工衛星の軌道計算か/歌を作る行為の癒し効果/「深海に生きる魚族のように」

――ではそろそろ時間もなくなってきましたので、質疑応答に入りたいと思います。

女性の受講生 先ほどのお話ですが、なぜ算数ドリルだとよくて国語だとダメなんでしょうか。文字数の問題でしょうか。

穂村 文字数だとむしろ「国語ドリル」のほうがぴったりなんですよ。なぜ国語だとダメなのか、ひとつには、短歌が「国語」だからかな。なるべく遠いもののほうがいい。もうひとつはこの歌は、安心した状態を歌っているわけです。なるべくその反対にある、デジタルで冷たいものを入れたほうがいい。たとえば栗木京子さんという歌人にも、夜中に好きな人のことを想うみたいな歌があるんだけど、そこでも数学を解きながら、なんですよ。これが作文を書きながら、だと、たぶん好きな人を想うのと、脳の使ってる場所が近すぎるんですよ。だから、なるべく冷たいものをやっているときに愛情が発動するほうがいい。
 以前、女の人はみんな男性の眼鏡が好きだと信じている、というおかしなエッセイを書いたことがあるんですけど、女性の目から見てですね、婚約者の男性が机で何か作業をしていて、その邪魔をしてかけている眼鏡を外したりしたら楽しいに違いない、みたいなエッセイなんですが、そのとき男の人が、ふたりの結婚式のプランを立てているときに眼鏡を外して邪魔をするのが楽しいか、それとも人工衛星の軌道計算をしているときに眼鏡を外すのが楽しいか。どっちが楽しいか考えたら、きっと人工衛星の軌道計算を邪魔するほうが楽しいに違いない、と思うんです。自分から遠いものにその男性が没頭している、その遠さが心に火をつけるというのかな。

女性の受講生 先ほど短歌がお金になるかどうかというお話をされていましたが、私が以前に短歌を作っていたときは、すごくストレス解消になりました。だから、お金にならなくても短歌は作ったほうがいいと思うのですが。

穂村 そうですね。もともと、相聞歌と並ぶもうひとつのジャンルが「挽歌」で、これは人が亡くなったときの歌です。ストレス解消と言うと何ですが、癒しというか、この世の手段ではどうしようもないときの、最後の手段としての祈りとか呪いみたいなものだと思います。短歌はもともとそれに近い。たとえば雨乞いをするとか、国褒めをするとか。一種の呪術みたいなもので、合理的な解決方法ではどうしようもないとき、最後に人が選ぶものという感じがするので、非常に反時代的なものなんだけど、でも今もその機能があるのかな。震災みたいなことが起きると、短歌が押し寄せてきますね。それまで短歌をまったく作ったことがなかった人が、その出来事をきっかけに突然短歌を作り始めて、新聞に投稿してくる。それも一種の慰謝というか、癒しみたいなことだと思うんですけど、そういうものが持っている短歌の力って、プロがどんなに技術があったとしても、それとは違う凄さがあるので、ぜひ作ってみてください。

女性の受講生 上野の東京都美術館で開催されていた「バベルの塔展」で穂村先生をお見かけしたのですが、先生の「バベルの塔展」の感想をお聞きしたいです。また、絵画をご覧になって歌を作ることはあるのでしょうか。

穂村 僕は目が悪くてですね。「バベルの塔」はものすごく精密な絵で、しかも絵を守るために照明がすごく暗かったから、ほぼ何も見えなかったですね(笑)。
 絵や彫刻や、映画を見て短歌を作る仕事をしたことはあるんですけど、どれもすごく難しい。つまり、二次表現になるわけですよね。現実があって、それをダイレクトに歌うと一次表現になるけど、絵画とかって一度すでに表現に落とし込まれているじゃないですか。それをもう一度表現するのってとても難しくて、なかなかいい歌を作るのは難しいなと思いました。
 パターンはあるんです。絵画の短歌ってよくあるんですけど、パターンは、絵の中の人は400年ご飯を食べている、とかそういうやつ(笑)。でもそれって型だから必ず一定数ある。僕はそういう仕事には、いつも苦しんだ記憶がありますね。

女性の受講生 最近の歌人で、穂村先生のおすすめの方はいらっしゃいますか。

穂村 どうかな、最近ってわけじゃないけど東直子(ひがし・なおこ)さんはやっぱりいいんじゃない? 普通の口語で短歌を作っていて、「おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする」とか、「夕ぐれに夢をみました処女だったころのわたしと彼女のけんか」とか、すごくいいです。「好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ」という歌もいい。耳で聞いて、すっと入ってきますね。「一度だけ「好き」と思った一度だけ「死ね」と思った非常階段」、「喧嘩喧嘩セックス喧嘩それだけど好きだったんだこのボロい椅子」、これもいいですよ。
 それから、短歌のプロらしいものでは、やっぱり吉川宏志(ひろし)さんがうまいんじゃないですかね。蟻だったらミルクの上を歩いてみるとか、そういう発想が結構面白い感じがしますね。
 もちろん、葛原妙子(くずはら・たえこ)は読んでほしいけど。葛原妙子の歌は最高ですよ。
 それから、昭和14年にハンセン病で亡くなった、明石海人(あかし・かいじん)。この人の歌集『白描』は、序文から素晴らしく感動します。今なら治るんだけど、当時はハンセン病は不治の病でした。目が見えなくなって、気管を切開して声も出せなくなって、少しずつ壊れていくんだけど、その中で素晴らしい作品を残している。その序文の中に、すごく有名になった言葉があります。「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」というんですけど、とても感動的な言葉を遺しています。
 まあ、アンソロジーを読むのが一番いいのかもね。いろいろな歌人の作品が読めるから、その中で気に入った人をたどっていけばいい。若い人のアンソロジーだったら、山田航(わたる)さんの『桜前線開架宣言』(左右社)という本があります。ピンク色の表紙で、40人ぐらいの短歌が入っているから、その中でいいと思った人の歌集を見つけて、読んでいくのがいいんじゃないかな。

――まだまだおうかがいしたところですが、残念ながら時間となってしまいました。今日は長時間にわたり、ありがとうございました。

(場内大拍手)

【講師プロフィール】
◆穂村弘(ほむら・ひろし)氏

1962年、北海道札幌市生まれ。上智大学文学部英文学科卒。86年に連作『シンジケート』で角川短歌賞次席。89年に第1歌集『シンジケート』、92年に第2歌集『ドライドライアイス』を刊行して90年代のニューウェーブ短歌運動を推進する。2000年歌書『短歌という爆弾-今すぐ歌人になりたい人のために』。02年に初エッセイ集『世界音痴』を刊行し人気エッセイストの地位を築く。08年短歌論『短歌の友人』で伊藤整文学賞受賞。17年『鳥肌が』で講談社エッセイ賞受賞。現在、日本経済新聞の歌壇選者。

●第1歌集 「シンジケート」(沖積舎)   ※角川短歌賞次席
https://www.amazon.co.jp//dp/480601110X/

●第2歌集「ドライアイス」(沖積舎)
https://www.amazon.co.jp//dp/4806011118/

●歌書「短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたい人のために」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4094088695/

●エッセイ集「世界音痴」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/409408441X/

●第二エッセイ集「もうおうちへかえりましょう」(小学館文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00B9CAKVW/

●歌集「短歌の友人」(河出文庫)
※伊藤整文学賞受賞  
https://www.amazon.co.jp//dp/4309410650/

●「鳥肌が」(PHP研究所)※講談社エッセイ賞
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83051-3

●「ぼくの短歌ノート」 (講談社)
https://www.amazon.co.jp//dp/4062194589/

●「短歌ください」(角川文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00L10N6MW/

●「はじめての短歌」 (河出文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4309414826/

●「野良猫を尊敬した日」 (講談社)
https://www.amazon.co.jp//dp/4062203952/

●「もしもし、運命の人ですか。」(角川文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4041026245/

●「ラインマーカーズ The Best of Homura Hiroshi」(小学館)
https://www.amazon.co.jp//dp/4093874492/

●「キリンの子」  鳥居 著 (KADOKAWA)
https://www.amazon.co.jp//dp/4048656333/

●「茂吉秀歌」 塚本邦夫 著 全5巻(講談社文芸文庫)
https://www.amazon.co.jp//dp/4061591347/

●「桜前線開花宣言」 山田航 著 (左右社)
https://www.amazon.co.jp//dp/4865281339/

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